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暮瀬堂日記〜木槿(むくげ)

 散歩をし始めて程なく、三輪自転車に乗った八十代くらいの翁が、通りすがりの人を見ては何やら声を掛けていた。

 かなり大きい声なので道ゆく人は一様に振り向き、なるべく関わらないようにしよう、というように端の方に散って行った。しかし、よく聞いてみると、
「労災病院病院はどっつだろうかあ」
 と道を尋ねているのだった。尋ねられた人は、
「ここからだと…説明するのが難しいなあ」
 と困惑した表情を浮かべていた。確かに、この路地の中に入ってしまっては複雑な順路であるし、かと言って大通りから行けば、明らかに事故に合いそうである。
「なんでしたら、僕が病院まで御案内しましょうか」
 見るに見かねてそう言うと、
「いいの?悪いねえ」
 と再び自転車を漕ぎ始めた。


「外来ですか?」
「うちの母ちゃんが入院したんだよ。転んで腰の骨折って、救急車で運ばれたのさ」
「最近ですか?」
「今日だよ」
「それは大変でしたね。でも、コロナがあるから面会出来ないかもしれませんよ」
「こそっと知らね振りして入って行けば大丈夫だろう」
「でも、マスクはしないとなにか言われますよ」
「マスクは持ってるよ。新コロには困ったもんだなあ」
「そうですね。所で、どちらからいらしたんですか」
「南六郷」
「南六郷て言うと、OKストアのあたりですよね」
「そだよ」
「結構遠いですね」
「道わからねくなって、人に尋ねながらここまで来たんだよ」
 そんな会話をしながら、十五分も経過した頃だった。

「あ、喉乾いたからなんか飲もう。何がいい」
 そう言うと自販機の前で止まり、グレープジュースを買うと、ぐびぐび飲み始めた。
「僕はいらないですよ」
「いいから遠慮しないで、飲もうよ」
「いや、本当にいらないです…僕は酒しか飲まないんですよ」
「ああ、そう…。俺は酒は一滴も飲めねえんだよなあ。じゃあ、酒売ってるとこあったら買ってあげるから」
 断る為に言ったのに、何とも正直に受け取る人だなあ、と再び歩き始めると、
「いやあ、世の中にこんな親切な人が居るとは思わなかった。まだまだ捨てたもんじゃねえなあ。ひねくれた考え持ってたけど、改めよう。何だか元気が出て来た、一人でも頑張って生きていこう」
 しみじみ独り言ちていた。
「奥さんと二人で暮らしてたんですか?」
「息子夫婦と孫と暮らしてんだよ」
「どこに住んでるんですか?」
「蒲田。それにしても、東京の道は分かりにくいなあ」
 ーーうむ? さっきは『南六郷』と言っていたはずだが……と思いつつ更に尋ねた。
「前はどこに住んでいたんですか?」
「蒲田」
「お生まれはどちらですか?」
「蒲田。蒲田から蒲田」
 ずっこけそうになっていると、
「まだまだ遠いかねえ」
 と疲れた様子になって振り向いた。
「もう少しですよ。あの角に木槿の咲いている家がありますよね。あそこを右に曲がればすぐですよ」
「ああ、そうか」


 木槿の家を曲がって労災病院の病棟が見えると、
「ここ来たことあるなあ。でも、帰れなくて自転車置いて、タクシーで帰った記憶があるもん。んだけんど、今度は自転車どこに置いたか分かんなくなるんだよなあ」
 建物を見上げながらそう言うと、続けて、
「どこのどなたか存じませんが、親切にありがとうございました。世の中にこんな親切な人が居るとは思わなかった。今までひねくれた考え持ってたけど、心改めて生きて行くわ。本当に、ありがとうございます」
 と帽子を取って深々とお辞儀をすると、病院の中に消えて行った。
 時計を見ると午後一時前である。朝から何も食べていなかったので、ふらふらとしながらも、

   道順の標にさるゝ木槿かな

 と手控えて、急ぎ足で家路に就いたのだった。


※木槿……むくげ。7月から10月頃にかけて咲くが、もっと早い時期から咲いているのを見かける。秋の季語。

(新暦九月十四日 旧暦七月二十七日 白露の節気 鶺鴒鳴【せきれいなく】候)

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