「現存」を確認できた日(2023/09/04 椿屋四重奏『続・真夏の宵の夢』)
(※ライブレポというよりは個人的な思い出話というかエッセーみたいな
ものですのでご注意ください。あとまあまあ記憶も曖昧です。)
「プロローグ」が始まった。ほとんどヒーローショーだった。
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2012年のおそらく4月ごろ。僕は、椿屋四重奏というバンドがあるらしい、ということを知った。
当時YouTubeで配信していた『中山功太の愛で世界を埋め尽くせ』で紹介されていた(いつの回に、どういう風に紹介されていたとかは全く覚えていない)のを聞いて、
「世界で一番面白くてカッコいい芸人が言うんだから、きっと最高なんだろう」
と、大学2年生だった僕は駅前のTSUTAYAに行き、アルバムを借りた。
確か『RED BEST』だったと思う。多分。
『群青』がすぐに僕の胸を染めていった。
というよりも、僕自身が椿屋四重奏という「全ての色を混ぜた池」みたいなものに落ちた。
好きになる曲やアーティストというのは、自分を好きにさせてくれるものだと思う。
椿屋の曲は当時の自分の境遇に重なるような歌は多くなかったように思うけれど、それでも羨望というか、憧憬というか、今まで感じたことのない渇きが生まれてしまって、
「あぁ、これはずっと聴き続けることになるな」という予感みたいなものがあった。
それがなぜか嬉しかった。
ふとした折に、このバンドがすでに解散していることを知った。
当時はライブに行く習慣そのものがあまり無かったため、生で聴けない、会えない、みたいな絶望は感じなかったものの、「そんなことあるかよ」と思った。
知ったときにはもう居なかったのなら、僕が聴いていたものは何だ? と思う。
虚しさや怒りを言っているのではなく、純粋に、その感情に付ける名前の「答え」がわからなかった。
この十余年の間、確実に曲はそこに存在しているのに、実際には存在していない、劇中劇のような存在のまま、椿屋四重奏は僕の中だけに在った。
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「マジでおるやん」と思った。マジでいんのかよ。椿屋四重奏って。
こんなにも感傷的になったライブは生まれて初めてだった。
陳腐な言い方だが、心にあいていた穴に無理やりその実在性がねじ込まれてくるような、圧倒的な存在感がそこにあった。
手つかずの世界、紫陽花、小春日和、マテリアル……群青!
何度言うが、「本当に在ったんだ」。妄想でも幻でも蜃気楼でもなかった。
僕の中にしか無かったものが、目の前に確実に在った。
MCで、サクセスストーリーを描けなかったロックバンドとして語った事。
不時着。
コールドスリープから起きて、世界が滅んだことを知らされた時のような、絶望とも諦めとも違う、じわじわと現実が体に染みていくような、それでいて紡げるはずだった時間がその瞬間に去ってしまった様な感覚。
これまでの答え合わせをしているうちに、ライブは終わった。
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数日が過ぎたが、あの時間の事を思うとまだずっと目の前に椿屋四重奏がいるような感覚に陥る。
時折呆然と立ち尽くしながら聴いた、観た、あの時間に感じたことをすべて言い表すことは、僕にはきっと一生できないだろうと思う。
無くした感情の答えはわからないまま、心の窪みはあのライブによって満たされ、これからも僕は、椿屋四重奏を聴き続ける。