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結婚指輪という呪具

2025年1月1日に結婚指輪がとどいた。
新婚旅行で訪れた屋久島の工房に頼んでいたものだ。
装身具を買うのは、ある古道具店でチベット密教の佛具以来だった。

それはバイクの運転中に、手元に意識を向けるためのアイテムとして、また何となくご利益がありそうなものを買ってみただけだったのだが、身体的にも意識的にも注目を向けているからか、いつのまにか内と外を媒介する道具として、立派に機能している(と感じられる)ようになってしまった。

期せずして物体が意識の媒体となり、まじないの道具(呪具)となるプロセスを実感することができたのだが、そのせいで下手な装身具を身につけることに抵抗ができてしまった。過剰に意識してしまうのだ。

(ちなみに佛具は独鈷杵だった。先が尖っているのは意識を1点に向けやすく、なるほど呪具としてやはり実用的なのかもしれんと思った。)

そんなこともあって、できあいの指輪に二の足を踏んでいたところ、新婚旅行の予定を立てていた種子島の隣に工房を見つけたのだった。

先に作ってもらっておいて取りに行くこともできたが、旅の道程に組み込み、それぞれ道中で感じたことを伝えることにした。

作家側の指向などもあって、様々に紆余曲折を経ながら、
できるだけシンプルにデザインを削ぎ落としていった。

その結果できたリングは、その過程を踏んだという事実だけで、当事者には充分に意義深いものと感じられるようになった。これもまた、ありきたりで大切なお呪いに違いないのだ。

あたたかな陽の光に照らされて、明滅する鏡面の波。
長い波長と短い波長。反射した光か、あるいは波そのもの。
正しい意味も見方もなく、ただ主体者の思い出に応答するモノ。

彼女は彼女で、彼女だけの大切なイメージを重ねていたけれど、僕はずっと人間の意識にちかいカタチになればいいなと思っていた。

エナクティブな認知でも、ボロメオの輪でも、考えられそうな形。もうそんなふうに意識づけてしまっているからかもしれないけれど。

とはいえ、はじめからイメージしていた言葉はあって、
それは「燐光(Phosphorescence)」だった。

宝石の国というよりは、学生時代に聴いた楽曲の「燐光」。
あと、太宰治の短編「フォスフォレッスセンス」。

小説の方は、はじめこそあんまり思い入れがなかったが、
今となっては読めば読むほど味がするので太宰治は凄いのだ。
この文脈で言えば、意識というよりは、むしろ霊魂に寄るのかな。

どうやらここからあやかったらしいBarもあるみたいだから、
世の中は狭い。そのうちそこに呑みに行けたらいいなと思っている。

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