障害者クレーマーを産む3つの構造 #4

構造3:マスメディア・謝罪・捏造

・論座 2021年04月13日『車いす“乗車拒否”問題はJRの努力不足が要因。伊是名氏批判も一種の障壁』
・DIAMOND (みわよしこ) 2021年4月16日『JRの車椅子乗車拒否と生活保護叩きの意外な共通点』
・BuzzFeed (Satoru Ishido) 2017年6月29日『なぜ声をあげた障害者がバッシングを受けるのか?バニラ・エア問題、本当の争点はどこにある』
・日経ビジネス (河合薫) 2017年7月4日『大炎上“バニラエア車椅子事件”の大いなる誤解』

この問題に関するマスメディアの反応は(ほぼネットメディアに限られますが)、ほとんどが伊是名夏子さんに肯定的なものです。
今回に限りません。
障害者が何か問題を起こしたという状況ではメディアはほぼ盲目的に障害者側を支持することが知られています。
記事の内容は概ね同じで、共通して初歩的な誤りを見出せます。

・「合理的配慮」は限度なくあらゆる介助を要求するもの。
・努力義務であることに触れず、法的義務かのように記す。
・「負担が過重でないとき」という条件も無視する。
・断られると予想されれば連絡する必要がない(一部除く)。
・駅員や乗務員などの負担は無視(一部除く)。
・問題視されたのはクレイマー行為なのに問題をすり替えている。

これらの誤りに関しては既に指摘しましたが、合理的配慮に関するものなどは指摘されるまでもなく明白です。
なによりどんな問題であっても障害者側を批判しないという態度は、個別に正当性に基づいて判断していないことを示しています。

擁護記事の影響

こうした記事が産まれる背景については後述しますが、問題はこうした少数の記事が与える影響です。
このような意見はあくまで少数意見です。
しかし「マスメディアが記事を出した」という事実は大きな影響を持ちます。

第一はクレーマーが誤りに気づけないことです。
マスメディアはどんな場合にも彼らの味方をするので、彼らが自分たちの誤りに気付くことは格段に難しくなります。
「ネットでは批判されるが、頭のいいマスコミは分かってくれている」てなもんです。
そうすることで記者にとっては格好のニュース材料を確保し続けることが可能です。

第二はマスメディアに盲従する人間が一定数居ることです。
彼らは世論としては大きな力を占めませんが分母が増えれば企業や政治家にとっては無視できない攻撃性を持ちます。
また彼らはマスメディアに協力的であることから、マスメディアによる世論調査における有効回答数比では比較的大きな影響を持つことも知られています。
場合によっては安全のためにカメラの前や電話越しでは実際の意見に反し従順に振る舞う層も存在します。

第三は謝罪です。
マスメディアが攻撃した場合、企業・政治家・政府が取る典型的な姿勢は謝罪です。
どんな存在であれ完璧で瑕疵のない行動は不可能で、謝罪する点は何かしら存在します。
また今後の対応コストから考えれば攻撃された点だけは対応するのが「合理的」になることがあります。
それゆえに彼らは謝罪を強いられるわけです。

謝罪は謝罪した側がその問題全体で誤っていたことを示しません。
何らかの瑕疵があったことを示し、それはどこにでもある当然のことです。
しかし謝罪は悪意を持って利用されます。

補足:なおこの記事を書いている間に伊是名夏子さんの謝罪があったようですが、彼女に関しても謝罪は全体の誤りを示すものではありません。
彼女に誤りがあるとすれば根拠は謝罪ではなくそれ以外の理由です。

この手法は国家プロパガンダとしても利用されています。
なお以下の件で謝罪したのは国家による直接の圧力ではなく、その支配下にある/民族主義的なマスメディアに影響された「大衆」の圧力によるものです。

・ITmedia 2020年9月28日『ホロライブ、所属VTuberに不適切な言動あったと謝罪 「桐生ココ」「赤井はあと」3週間の活動自粛』
(補足:これは「台湾」に言及したVtuberが中国で批判を浴び謝罪したもの。台湾(中華民国)は現在16ヶ国から国家承認されているが、日本は国家承認していないが「台湾」は一般的な呼称。日本国内では思想の自由/言論の自由が存在する。中国国内では実質的に保証されていない。)
・HUFFPOST (高橋史弥) 2021年03月31日『「中国に対する一切の中傷とデマに反対する」アシックス中国法人、新疆ウイグル自治区めぐる問題で声明』
・聯合ニュース 2019年12月26日『リバプールが「旭日旗」問題を謝罪し再発防止約束 抗議の韓国市民団体に』

第四は事実の書き換えです。
「マスメディアの記事があった」「謝罪があった」。
これだけの条件があれば、攻撃されたのがクレーマーの側であるのに「問題視された」「批判を受け謝罪した」とだけ書いたとしても、少なくともマスメディアにおける倫理意識としてはフェイクニュースとみなされません。
実際に以下のような文章がありました。

翌2017年、奄美空港で車いすの乗客に自力でタラップを上がらせる対応を取った格安航空会社(LCC)バニラ・エアの問題では、この法律が効力を発揮し、バニラ・エアは障害者差別解消法に違反していると批判され、謝罪しています。(「車いす“乗車拒否”問題はJRの努力不足が要因。伊是名氏批判も一種の障壁」)

これは大きな誤解を招く書き方です。
当時を覚えている人には強烈な違和感を与えます。
実際には今回同様「障害者差別解消法に違反していない」という指摘が相次ぎ、無理に乗り込もうとした乗客側が批判されています。
謝罪したのは対応が完璧とまでは言えなかったからで、全体として誤りだったからでも、事前連絡が必要なかったからでもありません。
攻撃したのは少数のマスメディアによる記事だけで、彼らは何があっても同じことを言うでしょう。
結局彼らが居る限りどんなに誤った行動でも「賛否両論」程度になってしまいます。

今回の問題でも「2021年には~JR側の対応に批判が相次ぎ、謝罪しています」などと数年後に書かれるかもしれません。
それは厳密な意味で嘘が含まれていないとしても捏造ですし、マスメディア以外の基準では純然たるフェイクニュースです。

擁護記事が産まれる理由

このような記事が産まれる理由はいくつか考えられます。

第一は「エコーチェンバー現象」と呼ばれる効果によるものです。
マスメディアの記者、特に特定の分野の記事を書く記者は狭いコミュニティに属しています。
互いに顔を見たことがなくても「マスメディアらしい記事」を書くために互いの意見を参照し、自分と似た意見を見つけます。
「合理的配慮に制限がない」のような一見して明らかな誤りが複数の記事に渡って登場するのはそれが理由だと考えられます。

第二は注目を集めるためです。
記事は注目を浴びることが重要です。
誰もが知っている当然のことを言うより、誰もが「間違いだと」知っていることを言う方が多くの人の反論を呼び注目を浴びます。
PV数が直接確認でき広告収入に直結するネット記事の場合この傾向は強く出ます。
このように極端な言動が注目され賛同を得てさらに極端な言動に走るのはリスキーシフトと言われる現象です。

特にインターネットでは「怒り」を呼ぶ内容が拡散しやすいとされます。
彼らは意識的にも無意識的にもそれを利用します。
明らかに誤ったことを言い、人々を馬鹿にし、挑発します。
怒りと反論は彼らの利益になり、意見が完全に反駁されても気になりません。
無視して何度も繰り返すでしょう。

・Berger,Jonah, and Katherine L. Milkman (2012), “What Makes Online Content Viral?” Journal of Marketing Research,49 (2), 192-205

第三は意見の多様性という視点です。
価値がある情報は既に知らない情報です。
他の人が散々言ったことを新たに読もうとする人は、まぁ割といますが、ニュース記事に求めるものではありません。
新たな視点を提供することで議論を進展させることができます。

これは「悪魔の代弁者」と呼ばれるものにも近いです。
あえて多数の意見を否定し自由な意見を述べる存在が居ることで健全な議論が可能になります。
私もたまにやります。

これが動機なら良いことですし、そうでなくともそうした効果はあります。
ですがそれを根拠に「賛否両論」だとか「批判があった」などというのは捏造です。

第四は進歩史観に近い思想によるものです。
進歩史観は古い思想ですが、現在ではリベラル思想として復活しつつあります。
単純に「障害者に介助が増えることが進歩」であり、その為に声をあげることが前に進むことだ、という牧歌的な考えに基づいた行動としても説明できます。
もちろん障害者がより自由に行動できることは進歩であるのは間違いありません。
しかしそれを達成するのは我々全体の豊かさと国民の理解であり、単に「障害者の言うことが正しい」と叫ぶことではありません。

なによりそうした動機で書かれた記事は機械的な内容で、生成も予想も容易です。
わざわざ読む価値も尊重する理由もありません。
馬鹿で陳腐だが、誤っていれば反論したくなるだけの代物です。
正しい場合も新たな視点に欠けているので賛同者には無視され、そうでないものには反論される。
結局はどっちにしろ大なり小なり反論されて終わります。

第五は社会の豊かさへお誤解です。
マスメディアに属する人、あるいは学識を持ち寄稿するような人は経済的に豊かであることが通例です。本人がそうでなくても、近くにいる人は平均以上でしょう。
そのため、自分の社会を実際より豊かで税収も多いように考えがちです。
実際はそうではありません。
ですから福祉はより豊かに、あれもこれもやるべき、という結論に至りがちなのです。

それは悪いことではありません。
議論に新しい視点を加えますし、社会にいる一人の率直な意見です。
我々が学識者に求めるものの一つと言えるかもしれません。

以上に挙げた内、どれが実際の動機かは私にはわかりません。
おそらくはこのうちのいくつか、あるいは私が見つけられなかったいくつかのような、複数の組み合わせでしょう。
本当の動機は本人すら認識していないというのもよくあることです。

議論の価値

「議論を進展させる」という言葉はよく使われます。
マスコミに限らず「一石を投じたかった」「議論を起こしたかった」という正当化は典型的です。
そこから「どんな言説でもそこから議論が産まれれば意味はあるのか?」という疑問が浮かびます。

我々は議論がしたくてするわけではありません(議論好きは居ますが)。
結論を得るため、少なくとも近づくためにするのです。
当たり前のことを当たり前に示しても意味がありません。

今回の場合はほとんど当たり前のことです。
単純に勘違いしている人がいて、彼らが誤りに基づいた有害な行動を続けるので「誤りだ」と知らせたいというだけの話です。
その為の議論は大した意義を持ちません。

議論にはコストが掛かります。
人々の時間は貴重なものです。
社会において貴重な、最も賢明な人々の頭脳ですらこうした「ネット上の議論」に影響を受けます。
有限かつ有償のリソースであるならば使う対象は適切なものを選び、選んだ後は効果的にするべきです。
ここ数年のマスメディアは、おそらくは政治的目的のため、その点で失敗を重ねて来ました。

ただ今回の件に関して「議論を呼ばず意味がなかった」と語るのはこの記事の自己否定です。
私はこの記事を書くのに数日を要していますし、これだけの長文ですからあなたの時間も消費しています。
有用な視点を提供/紹介できたと考えたいですし、そのきっかけは伊是名夏子さんの一件です。
偶発的なものだとしてもです。

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