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Gift 16 〜 私が「身体」だとしたら自分や世界をどのように見て暮らすのか?

◎ 他の人々から切り離された弱くて小さくて孤独な自分

今日、私が住む八王子の南大沢では、朝から秋雨が降り続いています。気温は昨日より六度も低く、外に出てすぐに革ジャンを羽織りました。傘を差していても、風にあおられた雨がズボンの裾とスニーカーを濡らし、足取りは次第に重く、弱々しくなっていきます。

こんな日に「あなたとは何か?」と聞かれれば、迷わず「この身体からだである」と答えるでしょう。私はいま、寒さや冷たさや不快さを感じる身体をとおして、自分自身と、それを取り囲む世界を認識しているからです。

この私は、自分の外側にある要因によって簡単に傷ついたり損なわれたりします。つい先ほども、雨風に体温を奪われて風邪をひきそうになりました。少量の水とかすかな空気の動きでさえ、私の体調を壊すのに十分な力をもっているのです。

加えて、前話で書いたとおり、身体はある年齢を境に疲労し、色せ、衰え、やがて朽ちていきます。移り変わる天気や季節に備えるだけでなく、老いによって体力が落ちないよう、病気にならないよう、できるかぎりの管理や予防を心がけていなければなりません。

こうして、自分よりはるかに強大な「環境」と「時間の流れ」に翻弄ほんろうされて生きる自分を、私は、

「とても弱くて小さな存在」

と感じています。

さらに、そのちっぽけな身体は他の人から完全に切り離されています。皮膚の境界が曖昧あいまいになって、誰かと溶け合ったり、ひとつになったりすることはありません。

たとえ、家族やパートナーや友人がそばにいたとしても、まぎれもない事実として、

「みな、ひとりで生きている」

ということです。

誰ともつながらずに孤立しているとしたら、自分の生命を存続させる責任はすべて私自身が負っています。自然と、人生の興味や関心も、その手段である「自分の利得を追求すること」に絞られていくでしょう。

それはすなわち、

「私と他の人の利害や損得はいずれ対立する」

ことを意味します。

人が生きながらえるためには、衣食住などの「モノ」が欠かせず、あらゆるモノには「他の人が獲得すれば、自分の取り分が減る」という性質があるからです。

三個のリンゴのうち、同居人が二個を食べてしまうと、私にはひとつしか残りません。おたがいに「リンゴ二つ分の栄養が必要」と思っていれば、同居人の利が私の害になり、私の得は同居人の損になります。

相手が自分に恩恵をもたらすと双方で合意すれば、何らかの取り決めを交わしたうえで行動や生活を共にすることもあるでしょう。けれども、身体として生きる世界では、身近で親しい人でさえ、いつ「競合」や「競争」の相手に変わってもおかしくないのです。

◎ より多くを獲得できる優れた肉体をもつ人の価値が高い

では、そのような私の価値は何で決まるのでしょうか。

人生のおもな目的が生命を存続させるための利得の追究で、他の人と競うことでそれが手に入るとしたら、

「より多く勝てる人の価値は高い」

とみなされるはずです。

そして、私たちが身体なら、優れた肉体をもつ人ほどこの争いを有利に進められます。詳しく見ていくと、まずは、

「知力、体力、容姿」

の3つの資質がものをいうでしょう。

次に、生まれながらに備わるそれらの基盤に、

「技術、知識、経験」

を習得させれば、脳も含めた優れた肉体、すなわち「より多く勝てる身体」ができあがります。

ただし、このようにして決まる私たちの価値は、けっして一定ではなく、つねに変動し続けます。なぜならば、土台である身体は年齢とともに成長したり衰えたりするうえに、どれだけの努力や精進を積めるかによって、身につく能力の量と質も変わるからです。

一生をとおして、身体である私たちの価値がどのように推移するかをグラフに表すと、おおよそ次のようになります。

「身体である私」の価値

もちろん、その人が何を生業なりわいにするかによって年齢と値の関係は変化します。

スポーツ選手やアイドルなど、体力と容姿の比重が大きい職業なら十代に価値のピークを迎えることもあります。反対に、学者や政治家や経営者など、知力と経験が重視される仕事なら、グラフの頂点は上の図よりも人生の後半に動くでしょう。

いずれにしても、ひとりでは何もできない赤ん坊は「価値ゼロ」と言わざるを得ません。どれだけ可愛かわいくて最初から優れた資質をもっていても、この時点では、先の「より多く勝てる」という条件をまったく満たしていないからです。

ここから、背が伸び、体重が増え、脳が大きくなるに従ってできることは増えていきます。同時に、身体を鍛えたり、勉学に励んだり、美貌を磨いたりしながら肉体の性能が上がれば、次第にその人の価値も高まります。

もっとも、グラフの線はどこまでも右肩上がりになるわけではありません。多くの場合、分野に応じた年齢で頂点に達したあとは、肉体の衰えとともに下降していきます。ここからは、よほどの奇跡でも起こらない限り、V字を描いて回復することはないでしょう。

さらに、一生をとおして「どこまで価値を高められるか」は人によって大きく異なります。まず、優れた肉体の重要な基盤である「知力、体力、容姿」は、製品のスペックのように万人にかたよりなく備わっているわけでありません。

これによって、

「身体である私たちの価値は最初から等しくない」

という過酷な事実が浮かび上がります。

加えて、すでに見てきたとおり、どれだけ学び、どれだけ鍛錬するかで「技術、知識、経験」といったあとづけの能力にも優劣が生まれます。

つまり、この私たちは、生まれた時点で性能にへだたりのある身体をまといながら、

「努力や精進の量によってもそれぞれの価値に差が生じる」

という、一時いっときも油断できない厳しい世界を生きているのです。

「身体である私」の価値が生む個人差

◎ 愛は身体のどこから、どのような目的で生まれるのか?

いま、私たちは「人の本質は身体か、それともハートか?」を見極めようとしています。これによって、

「身体とハートのどちらが実相で、どちらが幻想か?」

の答えも明らかになります。

まずは、前話の終わりに立てた問いに沿って、

「もし、私の本質が身体だとしたら、自分をどのように認識し、どのような考えや信念や価値観をもって生きることになるか?」

を私なりにつづった結果、ここまで書いたような結論にたどり着きました。

環境と時間の流れに翻弄される私は、自分を「とても弱くて小さな存在」と認識し、親しい人と一緒にいても「独りで生きている」「私とこの人の利害や損得はいずれ対立する」と感じています。

生まれながらに優れた「知力、体力、容姿」をもち、その上に質の高い「技術、知識、経験」を身につけた「より多く勝てる人の価値が高い」と信じてもいます。

そうしてできあがる世界は、私に「最初から人々の価値は等しくない」「努力や精進によっても価値に差が生じる」という厳しい現実を突きつけてきます。

ちなみに、この価値を自分だけで決めることはできません。勝敗は個々の主観ではなく、それなりに公平な客観によって判定されなければ意味がないからです。

ここにも、切り離されて孤立しているはずの私が、なぜか評価は他の人に委ねるという、かなりいびつで緊迫した自他の関係が垣間見えてきます。

こうしてまとめてみると、たしかに私たちの人生を忠実に表している感じもします。実際に「生きるとはそういうことでしょ」と、なかばあきらめ気味に受け入れようとする自分もいます。

けれども、ここまでを書く途中に、同じ私の中から何度も「本当にこれだけか? 何かがおかしいんじゃないか?」と反論する声が聞こえてくるのです。

たとえば、生まれたばかりのめいっ子や、年老いて動けなくなった両親の価値を、先のグラフどおり「ゼロに近い」と感じたことはありません。パートナーや親しい友人がなまけているの見るたびに「ああ、またコイツの価値は下がったな」とも思いません。

それは、身体やその言動とは別の価値を見ているからではないでしょうか。

また、こんな私でも、それほど悩まずに自分の利を捨て、リンゴを食べる権利をこころよく同居人に譲れます。損得を抜きにして誰かの役に立てたときや、他の人が喜ぶ姿を見たときに、心から「嬉しい」と思えた経験もあります。

それは、利得よりも大切なものを知っているからではないでしょうか。

ここまでの話とは折り合わない不可解な感覚を、どれも「愛」と解釈できればすっきりするのかもしれません。けれども、前話の「私の何を好きになってくれたら安心か?」の問いが教えてくれるとおり、それではまた新たな矛盾が生まれてしまいます。

いったい、他の人々から切り離され、独立した機械のように動く存在のどこから愛が生まれるのでしょうか。やはり、身体の一部である脳の働きでしょうか。

だとしたら、脳はどのような目的をもって私たちに「他の人を愛せ!」と命じるのでしょう。いわゆる「種の保存」のためでしょうか。あるいは、先に書いた「相手の肉体が自分にもたらす恩恵」を手に入れるためでしょうか。

それとも、愛が幻想なのでしょうか。

◎ 痛みや疲れを感じる主体でしあわせも享受する

自分を身体とみなすことに「何かがおかしい」と感じる理由はこれだけではありません。

なによりも、

「本当に、この私でしあわせになれるのか?」

という最大の疑念をぬぐい去れないのです。

たとえ、一時のあいだ価値を高めることに成功したとしても、自分が環境と時間の流れに翻弄されるちっぽけな存在であることに変わりはありません。はたして、その私に「いつか敗者になるんじゃないか?」「いつか病気になって動けなくなるんじゃないか?」といった不安から解放される瞬間がやってくるのでしょうか。

そもそも、私は努力や精進を長く続けることが好きでも得意でもありません。子どものころから、勝負にも競争にもあまり興味をもてませんでした。

それでも「勝ち続けて多くを獲得することに価値がある」と言われるとしたら、キラキラした他の人と自分を比較しながら、うらやみ、ねたみ、失望するしかないと思うのは私だけでしょうか。

さらにいえば、人が身体なら、しあわせも身体で享受するしかありません。たしかに、喜びや楽しみを得ようとするとき、私たちは肉体に快感をもたらすものか、五感に刺激を与えてくれるものを求めます。

けれども、その肉体こそが、私たちの大嫌いな痛みや苦しみや疲れを感じる主体でもあるのです。

美味しいからといって食べ過ぎれば、胃もたれや腹痛を起こします。テーマパークのアトラクションを矢継やつぎ早にハシゴすれば、乗りもの酔いをしたように気分がわるくなります。

施術中は気持ちよかったはずのマッサージも、翌日にみ返しの痛みに変わることがあります。温泉や食事が充実してやされるはずの旅行で、なぜか最終日に疲れ果てる経験を私もしています。

こうして掘り下げていけばいくほど、少なくとも私にとっては「身体が自分」の世界でしあわせに生きることは、絶対にクリアできない無理ゲーのように思えてならないのです。

百歩ゆずって、Gift 06で書いた「長く苦しいロールの合間に、ほんの一瞬だけ花火のようなしあわせを見る」なら何とかなるのかもしれません。つまり、人にとってのしあわせとは、永続しないものなのでしょうか。

どれだけ目に見えて、手でれられる身体が「これが私だ!」と強烈に主張してこようと、このざらつきと気持ちわるさを残したまま、こちらの自分だけを実相と受け入れるわけにはいきません。

希望を失わずに「私とは何か?」を思い出す旅を続けるためにも、次は今話の真逆にあたる、

「もし、人の本質が形のないハートだとしたら?」

の答えを探ります。

(次章に続く……)

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