Gift 10 〜 時間の価値が高まるたびに愛は私たちから遠ざかる
◎ 愛を使うと人生でもっとも価値ある時間を失う
前話で見てきたように、いまの私たちは、どれだけお金があってもそれを遣って何かをする暇がなければ「ほしいもの」も「安心」も手に入らないと考えています。「時間を買えるならいくらでも払う!」と思う人は少なくないでしょう。
「時は金なり」の時代は終わりました。「Time is money.」の「is」も、日本語の助詞の「は」も、その前後が等しいことを表します。けれども、すでに両者の価値は同じではなくなっています。だとしたら、もっと正しく「金より時でしょ!」と言わなければなりません。
ここでは、思考が決めた報酬に貢献しないロールはすべて「無駄な時間」とみなされ、容赦なく切り捨てられます。私も先の想像の中で、ちょっとした楽しみや休息や睡眠を削ろうとしました。そこには、禁断と書いた家族も含まれています。
つまり、私はそのどれよりも、時間のほうが大切と判断したということです。
いつしか、私の関心は「手がける」ではなく、ロールを「終わらせる」ことに向けられるようになります。同時に、愛は、その自分にとって最大の敵に変わります。
なぜならば、この目に見えないものから生まれる「やりたい」という想いは、利害や損得はもちろん、誰のためや何のためといった目的を無視して私を本気で動かそうとするからです。
そのうえ、何かを始めたとたん、思考にはまったく理解できない「思い入れ」や「こだわり」を発揮して、時短とは真逆の道を進もうとします。
一刻も早く終わらせたい身としては、味わうも、浸るも、満喫するも、ほしいものを十分に得た人だけに許される特典のように見えます。自分はまだその資格を手にしていません。
そうは考えたくないと思っても、私の中には自然と、
「愛を使うと大切な時間を失う!」
という教訓が刻まれていきます。
こうして、時間の価値が高まればたかまるほど、封印どころか、異次元の彼方にでも飛び去ってくれないかと思うほど、愛は以前にも増して邪魔なものに見えてくるのです。
「際限なく増え続ける報酬」が私たちにもたらす変化はまだまだ続きます。
◎ 永遠に湧き出る時間がなぜ足りなくなるのか?
そもそも、私たちの「足りない」という感覚は「容れ物」とそこに「入れるもの」の関係によって生まれます。
たとえば、弁当箱やランチボックスを眺めているだけでは、それが自分に合っているかわかりません。いつもの昼食を思い浮かべ、想像の中でご飯やおかずを詰め込んでみて、初めて「ちょうどいい」や「小さい」もしくは「大きすぎる」と判断できます。
私たちは、時間という容れ物に未来の報酬を入れようとして「これでは足りない」「これでは賄えない」と感じています。ところが、弁当箱とは違って、時間には形もなければ、容量を決める仕切りもありません。
それだけでなく、私はこれまでの人生で「間に合わない!」と感じて焦ることはあっても、この世界から時間が消えてなくなる不思議な現象を見たことがありません。永遠に尽きない泉のように、時間はいつでも私の前にあり続けています。
それでもなお「足りない」と思うとしたら、私たちは未来の報酬を、自分で作り出した別の容れ物に入れようとしているに違いありません。あるいは、何らかの理由で「無限に供給される」という時間の特徴を消そうとして、そのまわりに「ここからここまで」を示す仮想の囲いを築いているのかもしれません。
日々の暮らしの中で「時間がない!」と焦る場面を思い出せば、この「別の容れ物」や「仮想の囲い」の正体がわかります。
まずは、短い場合で数日、長いときなら数か月か数年の範囲で決められる「締め切り」や「期限」があります。正確には、始まりから終わりまでを含めて「期間」と呼ぶべきでしょう。
たとえば、5日間の容れ物の中に、7日かかる仕事を入れてしまうと「時間が足りない」と感じます。また、期間にぴったり収まる仕事を入れても、数日のあいだ手を動かさなければ、いつかかならず「もう時間がない!」と嘆くときがきます。
次に、おおよそ10年の単位で私たちを不安にさせる「年齢」も、しっかりと容れ物や囲いの役割を果たしています。10代の終わりには「もう20歳になってしまう。それまでに○○をしなければ!」と焦り、20代が終わるころには十の位がひとつ増えて、同じセリフが「もう30歳に……」に変わります。
自分がいつまでこれを続けるのか興味をもって観察していたところ、なんと、3年前の59歳の誕生日に、ほとんど意図せず「ヤバい! もう60歳になっちゃうよ」とぼやいてしまいました。おそらく、10年後も20年後も、私の中からこの独特の嫌な気持ちはなくなっていないでしょう。
ただし、締め切りも年齢も絶対ではありません。仕事が遅い私は、編集者のころ、毎月のように締め切りを延ばしてもらっていました。たしか、期限どおりに入稿したことは一度もなかったと記憶しています。
年齢にしても、自分のさじ加減ひとつでいくらでもヤバさを調整できます。私も「30代では無理だった。しかたない。40代の前半までには何とかしよう」と、一線を引く位置を微妙にずらしながら自分の野望と折り合いをつけてきました。
じつは、どちらもある程度までなら柔らかく引き伸ばせるのです。
けれども、私たちの中にはもうひとつ、硬い金属でできた弁当箱のように、形を変えることが許されない絶対の容れ物があります。その期間は、先の2つよりはるかに長い「一生」におよびます。
この、焦りの度合いも最大であるはずの3つめの囲いを、私たちは、
「寿命」
と呼んでいます。
◎ 寿命の足りなさに抱く強い怒りが愛を粉々にする
すでに書いたように、足りているかどうかの判断は、容れ物の大きさと、そこに入れるものの量によって決まります。仮に日本人の男性の平均まで生きるとしたら、私の容量は81年になります。
愛を使う代わりに未来の報酬を選んだ私は、より多くを得られれば、よりしあわせになれると確信しています。その方針に沿って、思考は手に入れるべき「ほしいもの」や「安心」を次々と見つけるでしょう。
その量が、最低でも2割増しの100年分くらいになることは覚悟しなければなりません。Gift 08で見てきた「流行や人気や権威を頼りがち」「手に入れた瞬間に興味を失いがち」「自分の適量より多めに見積もりがち」の3つの傾向が揃えば、さらに開き直って2倍や3倍を求めてきてもおかしくありません。
とても残念なことに、そのほとんどはかならず溢れてしまいます。日々のロールをどれだけ削っても、時短の技術を極みの域まで高めても、81年の人生に200年分や300年分は入らないからです。
これによって、私はますます焦り、先の「愛を使うと大切な時間を失う」という信念も、もはや疑う余地がないほど固まっていきます。
加えて、寿命という絶対の制限は、締め切りや年齢に伴う焦りとは比べものにならないほど強い感情を私たちにもたらします。
まずは、望むすべてが収まる容れ物をもっていない自分に裏切られたと感じます。次に、その情けない自分にがっかりして厳しく責めたくなります。いたたまれなくなった私は、最後に、
「なぜ、人生はこれほどまでに短く、儚いんだ!」
と激しい怒りを抱くのです。
おそらく、その対象には自分だけでなく、貴重な時間を奪うように見えるまわりの人々や、行く手を阻んでばかりに思えるさまざまな環境も含まれています。つまり、寿命と手に入れたいものの不釣り合いがもたらす怒りは、世界のすべてに向けらているということです。
この変化が、私たちの愛にとどめをさします。
Gift 04では、初出社や初デートを例に「愛が使える自分」が消えるきっかけを探りました。その分岐点には、例外なく職場にいる人たちや、一緒に暮らすパートナーに対する「怒り」が見つかりました。それは、悲しみや孤独や不満など、別の感情に変換できるほど微かなものでも、私たちに愛を封印したいと思わせる力をもっています。
ひとつの心の中で、愛と怒りは永遠に同居できないのです。
自分への失望から生まれ、世界までを相手にする猛烈な怒りなら「愛が使える自分」を跡形もなく打ち砕けます。そして、寿命という動かせない容れ物に、それを超える量の報酬を入れようとする限り、この情況が変わることはありません。
(次章に続く……)
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