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Gift 07 〜 その「ほしいもの」は心と思考のどちらが決めているのか?
著名人の半生を描いた映画に、まだ幼い主人公がショーウィンドウ越しに憧れのグッズに見とれるシーンがよく登場します。
その子は、将来の職業がミュージシャンならレコードや楽器、バレエダンサーならチュチュやシューズ、野球の選手ならグローブやスパイク、学者なら専門書や顕微鏡がほしくてたまりません。たいていは、家にそれを買えるお金はなく、学校の帰りに店に立ち寄っては深いため息を漏らします。
じつは、私も10歳のときにこれとまったく同じ体験をしています。近所の小さなレコード店の壁に、ぽつんと1台だけ掛かっていたクラシックギターにすっかり心を奪われてしまったのです。
たしか、価格は4,800円だったと思います。もちろん、子どもの私にそんな大金はありません。何度もなんども親に頼み込んでは、適当にかわされる日々が続きます。出会いの日から半年ほど経ったクリスマスの朝、目が覚めると、箱でもケースでもないビニール袋に入ったギターが、私の机に立てかけられていました。
この日の感動は、あれから50年経ったいまでもはっきりと覚えています。当時の私は間違いなく、おもちゃのような安物のギターを「ほしい!」と思っていました。
その自分に、前話で立てた問い、
「そのほしいものは、誰がどのように決めているのか?」
を投げかけてみます。
最初の「誰が?」には、何の疑いもなく「私が!」と即答できます。両親は音楽にまるで興味がなく、わずか4,800円を半年も出し渋っていました。そんな彼らが、私に楽器を勧めたり強要したりするはずはありません。ギターを弾ける友だちはもちろん、まだ憧れのミュージシャンもいませんでした。
やはり、10歳の私がひとりで決めたのだと思います。
次の「どのように?」にも迷う余地はほとんどありません。先に「心を奪われた」と書いたとおり、レコード店のオブジェと化していたギターに私は恋い焦がれ、何としてもそれを自分のものにしたいと「心」で感じていました。
まとめると、答えは次のようになります。
「そのほしいものは、私自身が心の声に従って決めた」
私にはもうひとつ、この話とはやや趣の異なる「ほしい体験」があります。2008年に日本でも使えるようになったアイフォーンをきっかけに、アプリやガジェットにどっぷりハマってしまったのです。
ただ使うだけでは飽き足らず、1年後には、それらを活用した仕事術を紹介するブログを始めました。週に数本の記事を投稿し続けるには、つねに新しいネタを仕入れていなければなりません。しかも、IT雑誌の元編集長の肩書きをもつ私としては「自分で使った製品だけ紹介する」という方針にこだわりたいと思っていました。
さいわい、独立して始めた企業の顧問やコンサルの仕事が順調で、お金には少し余裕があります。そこで「いい記事を書くため」の大義のもと、有料のアプリや、国内では手に入らない欧米の高価なガジェットを買いまくりました。
しばらくすると、私の部屋は毎日のように届くフェデックスの箱で埋め尽くされました。よく、この手の散らかり具合を「足の踏み場もない」と表します。私は、比喩ではなく本当に、2か所だけ空いた床の隙間につま先を置きながら、なんとか入り口と机を行き来していました。
それだけの量になると、もうじっくり使い込んでいる暇はありません。一日のほとんどの時間を費やしても、購入した製品の7割ほどしか触れませんでした。さらに残念なことに、私のおすすめとして紹介できたのは、そのうちのわずか1割くらいだったと思います。
その後、まさにいま書いているようなことに関心が移り、開始から3年弱でブログの更新をやめてしまいました。
2017年に引っ越しをしたとき、箱も開けずに放置した3割をすべて処分しました。新品のガジェットを特大のゴミ袋に押し込みながら、猛烈な虚しさと切なさを感じていました。本体より高い送料を払って海外から取り寄せた製品の多くは、最新のアイフォーンにつなぐことさえできなくなっていたのです。
こちらの私にも同じ質問をぶつけてみます。まずは「誰が」それをほしいと決めたのでしょう。
たしかに、私がすべてのガジェットを選び、私がネットショップの購入ボタンを押しています。にもかかわらず、ギターのように「私が決めた!」とは断言できません。なぜならば、仮想の読者や仮想の同業者に「これをほしがらなきゃダメでしょ!」と押し切られていた感覚があるからです。
どちらも実在する人物ではなく、当時の私が勝手に作り出したイメージに過ぎません。記事を書いていると、頭の中の彼らが厳しく冷ややかな表情で、
「ありきたりの製品レビューなら、もう読まないよ!」
「倉園さんも、そろそろネタ切れなんじゃない?」
などと言ってくるのです。
すっかり不安になった私は「もっとインパクトが強くて、読む人があっと驚くものを探さなきゃ!」と焦ります。そうなるともう、寝る間も惜しんで珍品の発掘に没頭する自分を止めることはできませんでした。
「どのように?」についても、ギターの自分とはまるで異なる感覚があります。いま思えば、かなり早い段階から心は「こんな不毛なことはもうやめたい!」と叫んでいました。その声を黙らせて、私を爆買いに駆り立てるものはひとつしかありません。
それは「せっかく増えてきたページビューを落としたくない!」「オワコンと思われたくない!」「一目置かれる存在のままでいたい!」などの、
「考え」
だったのです。
こちらの体験もまとめると、次のような結論にたどり着きます。
「そのほしいものは、幻想の影響を強く受けた私のようなものが思考で決めた」
そして、これがそのまま前話の終わりに立てた問い、
「心を動かさないとしたら、ロールに伴う痛みをチャラにしてくれるほどほしいものは、いったいどこから生まれるのか?」
の答えになります。
すでに見てきたように、第二の対策を講じた時点で、形のない想いや心も、その源泉である愛も「触れてはいけないもの」もしくは「最初からなかったもの」とみなされています。その選択をした私たちが、報酬や安心などの「ほしいもの」を決めるときだけ、都合よく心を呼び覚ますことができるでしょうか。
すべてではないとしても、また、けっして意図していなくても、そのほとんどを「思考」に委ねるしかないと私は思います。
さらにいえば、私たちは幼いころから「行動の辛さや葛藤は、未来の報酬で帳消しにすればいい」という第二の対策を学んできました。それは、ずいぶんと長いあいだ心を使わずに動いてきたことを意味します。だとしたら、そもそも思考のほかに「心の声」があることさえ忘れているかもしれないのです。
前話で書いたとおり、これによって私たちの人生には、いくつかの「けっして見過ごせない問題」が生じていると私は考えます。
「心が求めるほしいもの」の多くは、私たちをしあわせな世界に導いてくれます。実際に、私はあのクリスマスの日から音楽に心酔し、20歳から32歳まで曲を作ってバンドで歌うことを生業にしていました。現在も音楽に関わる仕事は続けています。まさに、一台のギターとの出会いが人生の大きな分岐点になったのです。
では、もう一方の「思考が定めるほしいもの」はどうなのでしょう?
私たちの中には「けっしてここを深掘りしてはいけない」という暗黙の了解があるようにも見えます。愛の代わりに自分を動かしてくれるはずの「未来の報酬」を疑えば、せっかく発明した第二の対策が効力を失ってしまうからです。
それでも、Gift 01で書いた強い興味と知りたい想いを頼りに、もう少しだけこの探求を続けようと思います。
(次章に続く……)
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