
Gift 14 〜 なぜ、私の中に相容れない「二人の自分」がいるのか?
◎ どれだけ小さくなっても消えない微かな光
もしかしたら、あなたは前話を読んで、
「自分自身を振り返っても、他の人たちの言動を顧みても、とても私たちが愛そのものには見えない」
と感じたかもしれません。まったくもって、私もそのとおりだと思います。
職場でも、趣味の集まりでも、友人との会食でも、心ない攻撃に遭わないよう全力でまわりの顔色をうかがい、微に入り細を穿って空気を読まなければなりません。ときには、強い信頼で結ばれているはずの家族やパートナーから、立ち直れないほど深く傷つけられることもあります。
日々のニュースは、あいかわらず悲惨な事件や紛争の話題で埋め尽くされています。昨今の温暖化や気候変動による災害も、私たちの愛のない選択が招いた結果のように見えます。
さすがに、これだけの現実から目を背けて「それでも、僕らは愛なんだよ! さあ一緒に、Love & Peace!」などと楽観するつもりはまったくありません。そもそも、私の中にも間違いなくドス黒いものや、汚いものや、狡猾さや、妬ましさや、残酷さや、弱さや強欲が渦巻いています。
さらにいえば、かつての私は小動物のように恐がりで、いつも自分の保身ばかりを考えていました。利益のためなら、大切な人との関係をいとも簡単に壊せます。
恋人やパートナーとも、利害が一致するあいだの「同盟」を結んでいただけで、生活や行動を共にする主な動機は愛ではありませんでした。
それでもなお「愛そのものである自分」を帰る場所に据えるのは、私や他の人の中に、どれだけ小さくなってもけっして消えない微かな光が見えるからです。
ある条件が揃うとき、いつもの卑小な私とは別の、
「もうひとりの自分がここにいる!」
と感じることがたしかにあるのです。
たとえば、音楽を生業にしていた20代と30代のころなら、作曲やレコーディングやライブの演奏に携わる私は、おおよそ前話で書いた「与える創造」をやっていました。すべての行程にありったけの想いを注ぎ込みながら、ときには、目の中に入れても痛くないほど愛おしい作品が生まれました。
ステージに立てば、与える対象が観客に変わります。当時、ほとんどの人を敵とみなしていた私も、ライブの会場に足を運んでくれるファンとは「ひとつ」につながっていると感じられました。彼や彼女たちの熱意に応えたくて、奏でる一音一声を慈しみながら、まさに私の分身のような音楽をギフトしていたと思います。
その後、編集者に転身しても、こちらの自分は消えませんでした。
レイアウト用紙に手書きのラフを引くときから、すんなりと熱い想いが溢れてきます。取材のロケハンでも、カメラマンとの撮影でも、著名人のインタビューでも、筆者から届く原稿の朱入れでも、読者と記事への愛が「妥協せずに、もう一歩だけ踏み込もうよ!」と勇気づけてくれました。
過酷な校了を乗り切ると、すぐに四色刷りの見本誌が届きます。ゆっくりとページをめくり、私の記事が目に飛び込んでくると、心の底から「我が子のようにかわいい!」と感じました。この瞬間、それまでの苦労がすべて吹き飛び、また新しい記事が完成するまでの長く大変な道のりを歩き始めてしまうのです。
◎ 人は明暗の二面を併せもつ生きものなのか?
創作のほかにも「もうひとりの自分」に出会える機会はあります。相性のよくなかった仲間が苦境に立たされていると知ったとき、先に「同盟」と書いたパートナーがひどく落ち込んで弱っていく姿を見たとき、関わるのが嫌で疎遠にしていた親が倒れたと聞いたとき、不覚にも、
「これは他人ごとではない!」
と言い切る私が現れます。
この自分は、平気で損得や利害といった「理」の外に飛び出し、易々と「個」の境を超えていきます。気がつけば、愛するつもりなど微塵もなかった仲間やパートナーや親を、
「自分とひとつ」
と見ているのです。
もちろん、これは私に限った話ではありません。愛とは無縁に見えていた人から、まるで別人のような「もうひとりの自分」が顔を出す瞬間を、これまでに何度も目撃しています。
あなたも、真逆の性質をもつ「二人の自分」を感じたことはないでしょうか。意外な人が「愛そのもの」に変わる様子に驚いたことはないでしょうか。
これを明と暗のように、
「人はまるで異なるふたつの顔をもつ」
と捉えることもできます。
でも、この解釈には腑に落ちない点がいくつもあります。たとえば、第一部で見てきたとおり、ひとつの心の中に怒りと愛を同時にもつことはできません。また、不足を感じて満たされない心から愛が発せられることもありません。
だとしたら、いつもの怒りや不満を抱く自分と、不意に現れる「もうひとりの自分」も、私の中で共存できないはずです。昔のゲーム機のカセットのように、暗の自分でいるとき、明の私は「カチャッ」と取り外されているのでしょうか。
さらに、前話で私は「原初の想いは、自らの想いを与えながら、自分と同質のものを次々と創造した」と書きました。この「与える創造」によって世界の調和が保たれているとしたら、なぜ、私たちの中だけに「ひとつ」であることを拒むような、愛とは異質な感覚があるのでしょうか。
やはり、自分の心を知れば識るほど、よくいわれる「人の本性は二面」という説は受け入れがたいと感じるのです。
◎ 愛が実在するならその反対は存在しない
私たちが見ているとおりかどうかは別として、おそらく、原初の想いが創った世界も、そこに暮らす人々も何らかの形で実在しているでしょう。この「実際に存在するもの」を、本書では「実相」と呼ぶことにします。
私は、実相にはその真逆にあたる「対極」はないと見ています。
たとえば「光」が実際に存在する実相なら、その対極はないということです。「闇があるじゃないか」と思うかもしれません。でも、私たちが「闇」と呼ぶものの正体は「光が無い状態」に過ぎません。
水の入っていないコップが「水の反対」でないように、光の不在を表す闇もまた光の対極ではないのです。
前話で私は「原初の想いから受け継いだ形のないもの」を「愛」と定義しました。さらに、それは「宇宙が創造し、調和を保つための法則」でもあると書きました。この仮説を裏付ける証拠はどこにもありません。ただ、そのように捉えたくなる根拠はあります。
すでに書いたとおり、私や他の人の中には、原初の想いと同じ性質や意志がたしかにあると感じられます。また、想いを使って自分と同質のものを作る「与える創造」もできる気がします。ごく稀だとしても、自分と他の人が「ひとつ」であると思える瞬間もあります。
その意味で、私は愛も「実相」に違いないと予想します。
もしそうだとしたら、光と同じく、その不在はあっても、
「愛の対極は実在しない」
ということになるのです。
ではなぜ、私たちの中に闇という概念があるのでしょうか。なぜ、怒りや憎しみや拒絶など、愛とは真逆に思える感情を知っているのでしょうか。
◎ 私たちの創造力は暗闇の恐怖を作り出せる
ふだんは自覚していなくても、私たちの生活は、原初の想いから受け継いだ「創造力」によって成り立っています。キーボードを打てばパソコンの中に「書類」ができあがり、人としゃべれば「会話」が生まれ、掃除をすれば部屋が「きれい」になります。
これらすべての活動を、
「自分の中にあった想いを、誰もが見たり聞いたり触ったりできるものに変えた」
と捉えると、私たちがもつ「創造力」の凄まじさを実感できます。
この至高の能力を駆使すれば、本当は無いものから「たしかに実在している!」と感じるほど精巧な虚像を作り出せるとしたらどうでしょう。
もちろん、先の書類や会話やきれいな部屋と違って、そうして生まれたものは外の世界には現れません。
けれども、自分の頭の中で練り上げた物語を「現実に起こっている」と思い込むことはできます。あるいは、実際に見えている対象に自分が作った映像を重ね合わせて、新たな意味をつけ加えたり、別の何かに変えたりもできます。
たとえば、多くの人にとって闇は「暗いだけの空間」ではありません。たいてい、そこには怪しく恐ろしい演出が施されています。
私も子どものころから暗い場所が苦手で、夜道を歩くときはなるべく目を伏せて地面だけを見るようにしていました。顔を上げると、幽霊やお化け、妖怪、鬼、宇宙人、未知の生物などに出会うと本気で信じていたからです。
まさに「見てはいけない危険なもの」をいくつも作り出し、電柱や柳の木に不気味な映像を重ねながら、自分が思い描くとおりの体験をしていたわけです。
ただ、これだけではまだ十分ではありません。もし私が最強の勇者なら、ゾンビだろうとエイリアンだろうと無双ばりに撃退できるからです。
そこで、最後の仕上げにもうひとつ、
「得体のしれないものに太刀打ちできない、弱くて小さくて無力な自分」
という脚色を加えておきます。
こうして、ただの「光の無い」街や通りが、私を真に怯えさせる異世界に変わるのです。
◎ 幻想を手放して「実相の自分」を蘇らせる
先の「実相」に対して、原初の想いと同じ創造力を使って私たちが作り出す「本当は無いもの」を、
「幻想」
と名づけておきます。
頭で行う「物語の創作」と、プロジェクションマッピングのような「映像の重ね合わせ」と、それらの設定に現実味をもたせる「自分の定義」の三点セットによって幻想が生まれます。
これを「愛の不在」にあてはめてみましょう。
何かのきっかけで、自分が「愛そのもの」であった事実を忘れたとします。そのあいだ、私たちはまるで「愛が無くなった」ように感じます。闇の例と同じく、この隙間が幻想のキャンバスになります。
怒りや憎しみ、不信、不満の感情を抱く物語なら、いくつでも自在に描けるでしょう。そうして作り出した苦々しい映像を他の人々や出来事に重ねれば、油断ならない危険な環境も立ち現れます。最後に、自分を「冷酷で卑小な生きもの」と定義すれば、愛とは無縁の「私」と「世界」が見事に完成します。
あとは、それを「現実」とみなして対応していれば、行動もおのずと攻撃や争いや不信に彩られていきます。そうした悲惨な光景を目にしても、私たちはその源が幻想であったことを思い出そうとはしません。それどころか、愛の対極がたしかに実在する証拠とみなすのです。
これで、本来は相容れないはずの「二人の自分」が同居する謎も解けると私は考えます。
つまり、何らかの理由で私たちは、
「愛そのものである実相の自分に対抗して、その反対の性質をもつ幻想の自分を作り出した」
ということです。
じつはここに、私たちにとっての最大の救いがあります。
すでに見てきたとおり、光が実相で、闇から受け取る諸々の印象が幻想だとします。私は暗がりの中、自分が作り出した巧妙な物語に背筋を凍らせています。そこに眩しい朝の陽光が差し込んできたとしたらどうでしょう。
闇は一瞬で溶かされ、それと同時に私の恐怖も余すところなく消え去ります。
「二人の自分」をそれぞれ光と闇に置き換えてみてください。私たちの創造力を使えば「闇の自分」を作り出し「光の自分」を隠しておくことはできます。けれども「無いもの」である幻想に、実相を消したり、ほんのわずかでも変えたりする力はありません。
その証拠に、どれだけ愛から遠ざかろうとしても、ふとしたきっかけで「もうひとりの自分」が出てきてしまいます。これが幻想による目眩ましの限界ではないでしょうか。
一方で、ひとたび「光の自分」が戻ってくれば、もう「闇の自分」は私たちの中に留まっていられなくなります。実相と幻想は一処に同時に存在できず、幻想が実相を打ち消すことは絶対にありえないからです。
もし、私たちが「愛そのものである自分」を忘れたとしても、けっしてその真逆にはひっくり返らないということです。
この普遍の法則が「故郷に帰還する旅」をしっかりと支えてくれます。同時に、どこに向かって歩けばいいかも教えてくれます。
「長いあいだ作り続けてきた幻想を手放し、実相の自分を蘇らせる」
この道を抜かりなくたどればいいのです。
私たちも探索の手を緩めず前に進みましょう。そのために、次は、
「どのような経緯で、どのような目的で、どのような利点があって、人は幻想の自分を作り出すのか?」
の謎を解き明かそうと思います。
(次章に続く……)
前の記事「Gift 13」 | 次の記事「Gift 15」
この記事のマガジン
グッドバイブス公式ウェブ/「Heartnik & The Gift.」の学び方
「Heartnik & The Gift.」を体験できるイベントカレンダー