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Gift 12 〜 静かに穏やかに「愛とギフトのしあわせな循環」に帰る

◎ 手段に格下げされたロールと永遠に満たされない心

ここで、11話にわたって続けてきた「愛」をめぐる探索を振り返ります。

Gift 02で「人生とは何かを手がけること」と書いたとおり、私たちの日々の暮らしはさまざまなロールに彩られています。そこで私は、

「あらゆるロールをいい感じで手がけられていれば、人生もしあわせであるはず」

と考えました。

この仮説には、

「私たちがしあわせを感じられる時間はいまここしかない」

という当然の前提があります。

「いまここ」のほとんどがロールで埋まっているなら、喜びも楽しさもこころよさも、何かを手がけるその瞬間に味わうしかないからです。

Gift 03では「来客に一杯の飲み物を出す」ロールを例に、どうすればそれができるかを探り、次の答えにたどり着きました。

「愛から生まれる形のない想いを使う」

ところが、人と関わっているとかならず怒りを抱く日がやってきます。しかもそれは、あからさまに表には出せないという理由で「悲しみ」や「孤独」「失望」「不満」「正義」といった別の感情に変換されています。

いつしか、私たちの中にたくみにぼやかされた「かすかな怒り」が溜まり、なぜそうなのかの原因をはっきりと自覚しないまま、

「愛だけは使いたくない」

と感じるようになります。

それはすなわち、私たちの中から動く目的や動機が失われることを意味します。愛から生まれる形のない想いが「どこまでやるか?」「なぜそこまでやるか?」を決めてくれていたからです。

この時点で私たちは、それが本意ではないと頭でわかっていても「気のないプレイ」や「やっつけ仕事」しかできなくなります。にもかかわらず、そんな事情などお構いなしに、職場でも家庭でも以前と同じ質の高い成果を求められます。

しかたなく、私たちは次のかなり強引な対処法を発案しました。

第一の対策:あらかじめ、依頼主と仕上がりの質を合意しておき、文句を言われない結果を淡々と出し続ける。

愛が使えないなら、行動から想いを完全に切り離し「約束」や「契約」を動く理由にすればいいと考えたわけです。けれども、いまも働く人の多くが採用しているこのやり方は、新たな苦痛を生み出します。

なぜならば、それは私たちに、

「本当は愛していないのに、まるで愛しているかのように行動する」

よう強いるからです。

この耐えがたい状況を打破するためには、以前の「いまここで、何かを手がけながらしあわせを得る」やり方をあきらめるしかありませんでした。その代わりに「未来」という仮想の時間を使う次の方法を発明したのです。

第二の対策:日々のロールを、未来の報酬を得るための手段とみなす。

これならば、愛を使わずに動くことがどれだけ辛くても、いつか手に入る「ほしいもの」や「安心」がそれを帳消しにしてくれます。いったんは失われた目的や動機も「未来の報酬を得るため」というわかりやすい形で復活しています。

すべてうまくいくと思ったのもつかの間、ここから、まさにいまの私たちが直面するさまざまな問題が噴出します。

まず、本来はしあわせに直結していた行動を「手段」に格下げしたことで、私たちはそれ自体に興味をもてなくなります。冒頭に書いたとおり、日々の暮らしはロールで彩られています。そのほとんどが、目的を達成するための退屈な作業や段取りに変われば、人生の大半は苦行で埋め尽くされます。

次に、その目的である未来の報酬は際限なく増え続けていきます。なぜならば、愛を封印した私たちは「何を得られればしあわせになれるか?」の答えを、心の声ではなく、Gift 08で書いた「3つの傾向」から逃れられない「思考」の判断に委ねてしまったからです。

これによって、その受け皿である時間の価値が急騰し、私たちの中に、

「愛を使うと、人生でもっとも大切な時間を失う」

という不安が植え付けられていきます。

さらに、思考は私たちの中から「ほしいもの」が尽きないように、あの手この手で「不足」の感覚を作り出します。じつは、第二の対策をうまく機能させるには、

「永遠に満たされない心」

が欠かせなかったということです。

無限に供給されるはずの時間にも、期間や年齢などの仮想の囲いが施され、いくつになっても、朝から晩まで「足りない!」と焦らされます。最後には、やりたいことや手に入れたいことのすべてが収まらない「短い寿命」に失望し、激しい怒りさえ抱くようになります。

Gift 10Gift 11で書いたとおり、ひとつの心の中で愛と怒りは永遠に同居できません。そして愛とは、うるおい満たされた心のもうひとつの呼び名でもあります。

この真逆に進んだ私たちは、愛を夢やまぼろしと同じ「無いもの」に変えてしまいました。同時に、それまで多大な恩恵を受けていた、

「与えればあたえるほど増えていく」

というギフトの法則も使えなくなってしまったのです。

◎ 「やりたいことが見つからない」不思議な迷宮

こうしてみると、冒頭に書いた人生をしあわせにする方法「愛から生まれる形のない想いを使う」から、ずいぶんと遠くに来てしまった感じがします。それだけでなく、このもっとも簡潔で自然なやり方から離れるたびに、問題は複雑さを増していきました。

じつは、愛を使わずに動く辛さを解消する取り組みは、第二の対策だけではありません。最近では、ロールの中でも苦痛の強い仕事に着目して「働く時間を減らす」第三の対策や、怒りの解消にも少し踏み込んで「職場の雰囲気を改善する」第四の対策も進められています。

けれども、私たちの人生を彩るロールは仕事だけではありません。家庭はもちろん、友人の集まりや趣味のコミュニティーでも、微かな怒りを抱く機会は数多くあります。

それらもまとめて減らしていくとしたら、最後には、

「しあわせになりたいなら、誰とも関わらずにひとりでいればいい」

というかなり混乱した苦肉の策しか残らなくなります。

また、ロールの種類を変えたからといって、いったん「無いもの」にした愛を都合よくよみがえらせることはできません。かなりがんばって自分のためだけに使える時間と場所を確保しても、そこで何をやるかの決定は例の思考に頼るしかありません。

その結果として、私たちはいま、未来の報酬に何よりも高い価値を見出しながら、実際には「やりたいことが見つからない」という不思議な迷宮にはまり込んでいるのではないでしょうか。

ここまでくると、どうしても私の中に次の素朴な疑問が湧き上がってきます。ぜひ、あなたも一緒に考えてください。

「なぜ私たちは、もっとも簡単な、愛を取り戻すという選択をしないのか?」

もちろん、Gift 05で書いたように、職場や家庭にいる人たちへの怒りがまったく解消されないまま、それでも「愛を使え!」と言われるほど腹立たしいことはありません。私も、それだけは絶対に受け入れられないと思っています。

でも、もし強制やごり押しではなく、もっとしあわせな道筋の中で「愛が使える自分」を思い出す方法があるとしたらどうでしょう。

けっして大げさではなく、この答えを真剣に探すことこそが、現代に暮らす私たちのもっとも重要な課題と私は捉えています。

◎ 自分の意志で「怒りと愛のどちらを選ぶか?」を決める

たとえば、私たちが心から「ほしい!」と思う報酬のひとつに「評価」があります。仕事はもちろん、子どもの教育ぶりから、趣味で発信している作品、SNSのフォロワーの数、自分自身の印象まで、私たちはいま、他の人から認められることを熱烈に求めています。

それはほかでもない、

「愛されたい!」

という切実な願望ではないでしょうか。

しかも私の目には、この10年ほどのあいだにその傾向はどんどん強まっているように見えます。誰もが数分ごとにスマホを立ち上げては、自分の投稿につく「いいね!」の数を確かめています。いったい、私たちに何が起こっているのでしょう。

私はその理由をこう考えます。

「愛を封印した私たちは、誰かに愛されることでその穴を埋めようとしている」

もしそのとおりなら、またしても次の素朴な疑問が浮かびます。

「愛を使わずに、評価されたり愛されたりするのだろうか?」

たぶん、私たちは心の奥底で、愛を使うほうが気持ちよく自由に動けるうえに、もてる力を存分に発揮できると知っています。Gift 04で書いた初出社や初デートのときに、自然とこちらのやり方を選んでしまうのも、その自分なら質の高い結果を出せると信頼しているからだと思います。

この意味で「愛が使える自分」は私たちの原点であり、ごくあたりまえの姿だと私は見ています。

評価されたい、愛されたいと願うなら、なぜこのもっとも優れた自分に登場してもらわないのでしょう。不足を感じ、渇いて懸命けんめいに得ようとする心と、潤い満たされて愛からギフトしようとする心と、どちらがこの報酬を得るのにふさわしいでしょうか。ぜひ、評価する側や愛する側に立って想像してみてください。

私のセミナーや個人セッションでは、いまも「家や職場で正当に評価されない!」「努力が報われない!」といった悩みが上位を占めています。もちろん、その相談者は例外なく怒っています。怒りを抱けば「愛が使える自分」が消えて、ますますその人の本領を発揮できなくなります。

私もずいぶんと長いあいだ、この矛盾だらけの負のループから抜け出す術を模索してきました。何度もなんども遠回りを重ねながら、紆余曲折と試行錯誤の末に、先の「もっとも簡潔で自然な方法」に戻ってきました。

そこには、Gift 09で書いた、

「動くたびに心が愛で満たされ、その満たされた心が別の想いを抱いてまた動きたくなる」

というしあわせな循環が、何ひとつ損なわれることなく私の帰りを待っていてくれたのです。

おそらく、この問題は組織や制度の改革だけでは解決できないと予想します。なぜならば、

「怒りと愛のどちらを選ぶか?」

の決定は、いつでも一人ひとりの意志に委ねられているからです。

これを「つまり、自己責任ってこと?」と嘆く必要はありません。もし、自分の外側にある要因が先の選択に大きな影響を与えるとしたら、その成否はギャンブルと同じ運まかせになってしまいます。

私は、何があっても揺るぎなく愛を選べる地点を目指したいと思っています。むしろ、仕組みや環境の変化を待たずに、個人の取り組みだけで完結するほうが、私たちにとっても都合がいいのです。

もちろん、善人だけを集めたユートピアを作るわけでも、悪人たちに戦いを挑むわけでもありません。排除や分離や攻撃を伴うやり方の根底には例外なく怒りがあります。それでは、けっして珠玉のゴールにはたどり着けません。

いま手にしているものをひとつも犠牲にせず、何かを我慢したり何かに耐えたりすることもなく、静かに穏やかに「愛が使える自分」を思い出す方法があります。

約13年をかけて私が探求してきたしあわせな道のりを、すべてここに綴ります。

(第一部完。第二部に続く……)

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