《日付のある文章》首のない男
身辺雑記。そして首のない男があらわれて話すこと。
2021年5月14日、晴れ。今日は昨日と比べて気温差が+10℃にもなる箇所があるらしい。コンビニで買ったシールを貼って、粗大ゴミを出す。物を買うとき、捨てることは考えないものだな、と気づく。
昼過ぎ、うとうとするところに客人が来る。
人生でまず不幸なことは、と客人が話し始める、父親と母親の仲が悪いことだ、と。客人には首から上がなかった。頭がないというのにどうやって話しているのか。話しているのではなく、私に聞こえてくるだけか。
そもそもイエスがいて、いや神がいたのか、どちらでもいいが、信仰があった。その頃の信仰は素朴で、気持ちは強かったが力は弱かった。激しい弾圧が続き、信仰を続けるためには団結せねばならず、組織化する必要があった。そして、ついには権力もこの組織を認めないわけにはいかなくなる。まあ、これは聞いた話だが。
権力とは何か。他のものを弾圧するものを権力というのか。
何の話だったか。そう、父親と母親の仲が悪いのは不幸なことだ。私の場合、父親はカトリックで母親がプロテスタントを信仰していた。幼い私は、二人を愛したかったのに、二人はそれを許さなかった。私の心は引き裂かれた。
しかし、実のところ私は世界の象徴でもあった。国民が、世界が半分に分かれて争っていたのだ、カトリックとプロテスタントで。プロテスタントが虐殺され、カトリックも殺された。殺し合いで、世界は血が流れていた。私が心で流しているのと同じものだった。
私は母についていき、プロテスタントとなった。父は死んだ。しかし、争いは終わらなかった。虐殺が、裏切りが、強欲が、盲信が、暗殺が。嵐がすべてを混ぜ合わせ、とどまることを知らなかった。私は、カトリックへの改宗を強制されたこともあった。改宗しなければそこで死んでいたかもしれなかった。私はカトリック教徒になった。ある時は私を縛るものから脱出し、再びプロテスタントへ改宗した。さらには今度は自らカトリックへと改宗した。
傍目から見れば私は、信念のない男に映るだろうか。
私は、壊れた世界を修復しようとしていた。亡き父と亡き母の和解を望んだ。戦争の終結を望み、国民の平和と団結を望んでいた。私はカトリックとプロテスタントを結び、その傷を塞ぐことが私に与えられた使命であり、それが神の意向だと信じていた。
戦争は終わった。
もちろん、完璧に傷が塞がることはなく、カトリックもプロテスタントも憎しみが消えることはない。けれど、表向きはそれぞれはそれぞれの生活を、平和をいくらかは実現したのだ。貴族や教会、他国からの陰謀は渦巻いていたが、その時々で私は対処した。そう、自分が死ぬまでは。
死は突然、やってくる、誰にでも。私の場合もそうだった。予感はあったが。
前方に二台の馬車があり、すれ違うため、私を乗せた馬車の歩みは遅くなった。すると、突然、黒い影。一瞬後、名前も知らない汚らしい男が、車輪の上に立った、とわかった、その時には男は動作しており、私を見下ろすかたちで、つまり上から一撃をくらった。突き刺す痛みがあり、相手が刃物を持っていることが知れた、「やられた」と思わずもれた。右にいたエペルノン公にか、左にいたモンバゾン公にか、それとも群衆にか。男が私だけを強烈に狙っているのは確かだった。そして二撃目、防ぐことができなかった、先ほどより深く抉られるような感触があった。三撃目は防いだ、どう防いだのかわからない、そして声も出ず、口から血が流れ出てきた、抑えようもなく、どうしようもなく。
。。。
宗教戦争というのは、現代日本人にとって、どうもわかりにくく心理的共感ができないが、ヨーロッパの地で宗教のために殺し合う戦争が実際に起きていた。アンリ四世はカトリックとプロテスタントに分断したフランスを何とか和解させ、つなぎとめた人物だ。
1610年5月14日、午後4時頃、フェロンヌリー通りで馬車に乗っていたアンリ四世はカトリック教徒である男、ラヴァヤックに襲撃されて、刺殺された。
アンリ四世の遺体はサン=ドニ教会に埋葬された。フランス革命の余波(民衆が貴族などの支配階級を打ち倒す動き)で、1793年にアンリ四世の墓はあばかれて、遺体から首を切られて、頭部は何者かによって持ち去られた。
その後、アンリ四世の頭部は各地を旅し、様々な伝説を作るのだが、それはまた別のお話。
参考
佐々木真『図説 フランスの歴史』
フランソワ・バイル、訳 幸田礼雅 『アンリ四世 自由を求めた人生』