心の片隅の国へ -高揚と安心感の狭間-
中高生の頃に熱中した作家、伊坂幸太郎さんの『アヒルと鴨のコインロッカー』には、ブータン人が登場する。
殺生を嫌い、優しく実直な少年。石を下手で投げて遠くの旗に当てるテゴが得意。
物語の鍵を握る彼のような人が住む国へ行ってみたい。その思いは大人になっても変わらず、学生のうちに絶対にブータンへ行くと決めていた。
大学4年生の冬、最後の長期休暇にわたしはブータンへ行くことを決めた。初めての海外一人旅だった。突然現れた「一人でブータンへ行きたい」と言った人間に、旅行代理店のまだ若い女性は動揺していた。
なんとか取り付けたブータンへの旅。夜中の1時にバンコクに着いて朝4時のブータンへの便に向かうという少しきつめの旅程だった。
深夜1時、もはや慣れ親しんだと言ってもいいタイのスワンナプーム国際空港に到着し、コンビニへ寄って少しだけタイ気分を味わった。
その後、ブータンへのフライトの列に並んだものの、何故か掲示板の行き先表示はパロではなく、インドのカルカッタ。受付の女性にカタコトのタイ語で詰め寄った結果、カルカッタを経由してブータンへ向かうことが分かった。
飛行機へ乗り込むと、CAさんはみんなブータンの民族衣装のキラを身に纏っている。
ブータン唯一の空港、パロ国際空港は、世界で最も着陸の難しい空港の一つである。見晴らしの良い広い大地に伸びる滑走路とは異なり、数千メートルの山々を越えると突然、一本の滑走路が現れる。
空港を出ると、お願いしていたガイドが一瞬でわたしを見つけ、駆け寄ってきた。思っていた何倍も滑らかな日本語で自己紹介をして、車へ誘導してくれた。
山の斜面にへばりつくように造られたカーブだらけの道路を走っていると、目につくのは色とりどりのルンダがはためく様子と少しの民家、そして道端に横たわる牛とヤク。
オフシーズンだったため、周囲の木々は枯れていて山肌が見えている。ブータンの観光シーズンである5月にくれば、山一面が新緑に覆われるという。
朝4時のバンコクからのフライトでへろへろのわたしは、ただ、通り過ぎていく荒涼とした谷底を横目に流し見ながら、「何故、女一人でブータンへやって来たのか」というガイドの質問に返答する。
海外へやって来た、夢にまで見た国へ足を踏み入れた、という高揚感よりも、それなりに見知った土地へ足を運んだような不思議な安心感に身を任せていた。
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