「温室にて」その3
「温室の中はいつももう少し温度を高くしてるんだけど、今日は蘭に影響が出始める寸前まで下げてるんだ。冬服を着て演じてもらいたくて。季節感が欲しいからね。」
そう言えば、この前はコートを着ていられずに、すぐに脱いだはずだ、と麻子は思い出した。
今日の麻子はキャメルのロング・コートを着ている。ブーツに合わせて黒かオフホワイトのコートにしたかったのだが、園部に「白や黒は写りが良くないので他の色にしてほしい」と言われ、あきらめた。肩には黒に近いダーク・ブラウンのショールを巻いている。園部には、そのショールが示す肩の位置が麻子の背の高さをことさら強調しているように思えた。園部の目測では、少なくとも167~8センチはありそうだった。ヒールのせいもあるだろうが、164センチの園部には麻子は自分よりはるかに背が高く見えた。
撮影機材は予め運び込んであった。ビデオ・カメラ2台と照明器具。そして集音器。昼間の撮影に照明は必要ないようにも思えるが、撮影中、麻子は下を向くことになるので、顔を不自然にならない程度にライト・アップしなければならない。
園部は1人で奧に行き、大型のプラケースを持って戻ってきた。中ではカブトムシが黒い固まりのようになって、ひしめいている。カブトムシが脚でケースの内側を引っ掻くカサコソという音が絶え間なく聞こえてくる。
「雄しかいないんですね。」
麻子がなにげなく疑問を口にした。
「そう。なぜだと思う。」
麻子はかぶりを振った。
「このカブトムシはね。身代わりなんだよ。」
「身代わり?」
「そう、身代わり。」
「何の身代わり? 誰の? ひょっとして社長の?」
園部は笑いながら頷いた。
「じゃあ、あたしはこれから社長を踏み潰すのね。面白い。社長は社員のあたしに踏み潰されたいんですか、ふーん。」
園部は、麻子のそんな無邪気なコメントを聞くだけで、すでに熱いものを滾らせていた。
「でも社長は1人でしょ。こんなにたくさんいないわ。」
「踏み殺してほしいのは私だけじゃない。足元に近づく男を一人残らず踏み潰して、皆殺しにしてほしいんだ。貴女は近づく男を皆小人に縮小することができる。そういう魔力を持っている。私は貴女がうちの店に勤めるようになってから、ずっとそんなことを夢想してきた。」
「いやだ、社長。そんなこと想像してあたしのこと見てたんですか。」
そう言えば、社長はよく伏し目がちになると麻子は思い当たった。しかし、まさか自分の足を見て、そんな荒唐無稽な想像を逞しくしているとはもちろん思いもよらなかった。
園部はまず麻子が温室内を散策するシーンを撮った。純白の胡蝶蘭が並ぶ棚の間をそぞろ歩く麻子。ふと、立ち止まり、花に手を伸ばす。続けて、麻子がガーデン・テーブルで紅茶を飲むシーン。
――何だか、テレビの旅番組にでもありそうなシーンね。
麻子は心の中で苦笑した。しかし、園部は至って真剣である。
それが終ると、園部はカブトムシを1匹取り出し、地面を這う様をかなり時間をかけていろいろな角度から撮った。麻子はその間、ガーデン・チェアで休憩である。本番に備えて。
「それじゃ最初の犠牲者のシーン、行くよ。」
――いよいよね。
これから自分がしようとしていることを思うと、麻子も身体が熱くなるのを感じた。熱くなるだけでなく、下腹部から胸にかけてがまるで自分とは別の生き物のように、勝手に収縮を繰り返しているような不思議な感じがする。それは忘れかけていた感覚だった。
最初の犠牲者。
1匹のカブトムシが麻子の足元を這っている。
――小さいわ。
麻子は、自分のブーツのつま先と較べて思った。どこに行こうというのか、カブトムシは歩いている。麻子もそれを追うようにほんの少し歩を進める。
――敷石の上で潰さなきゃいけないのよね。じゃあそろそろ。
麻子は足を少し上げ、無心で歩くカブトムシの上にゆっくりと降ろしていく。麻子の視界からカブトムシが消えた。さらに足を降ろす。やがて、靴底に小さいが堅い物体が触れるのがわかった。
続く
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