京都生まれ、NY育ち。コーヒースタートアップ「Kurasu」創業者の少年時代【Yozo's Story #1】
「未来のコーヒー」をコンセプトとするコーヒースタンド「2050 Coffee」、高品質な海外コーヒー器具を扱うストア「Kigu」など、ユニークな事業を展開するコーヒースタートアップ・Kurasu。
実は、Kurasuの創業者・大槻洋三(Yozo)の人生も、Kurasuの事業と同じくらいユニークなんです。そんなYozoさん自身の生い立ちやキャリア、コーヒーとの思い出などを、ざっくばらんに教えていただきました。
幼い頃から、暮らしのそばにコーヒーがあった
——そもそも、Kurasuってどんなことをしている会社なんですか?
コーヒーに関わる事業をやっています。まずはカフェの運営。夷川通の「Kurasu Ebisugawa」、京都駅近くの「Kurasu Kyoto Stand」、西陣の焙煎所という3拠点がもともとあって、この秋、新京極に「2050 Coffee」という新しいカフェを立ち上げました。海外にも出店していて、シンガポールに2店舗、タイに1店舗、ジャカルタ(最近2店舗目がオープン)、香港に1店舗の拠点があります。
そしてもう一つが、コーヒー器具の販売です。もともと僕たちKurasuは、日本のコーヒー器具を海外に紹介・販売するところから事業をスタートしました。現在はそれに加えて、海外のコーヒー器具を日本に輸入し、正規代理店として販売する「Kigu」というブランドも展開しています。
——創業はいつ頃?
2013~14年ぐらいに、僕一人でオンラインサイトを立ち上げたのが最初です。オーストラリアのシドニーに住んでいたときに、ほかの仕事のかたわらで少しずつ、日本のコーヒー器具を販売し始めました。
最初はコーヒー器具に限らず、日本のいろんなアイテムを販売していたんですが、特にコーヒー関連のアイテムが人気だと気づいて。僕自身もともとコーヒーが好きだったので、コーヒー器具に特化することにしたんですよ。
そしたら徐々に人気が出てきて、「これ、けっこういけるんちゃうかな」って思うようになり、「店舗も作ろう」って Kurasu Kyoto Stand をオープンしたのが2016年。それから2018年に法人化して、ちょっとずつちょっとずつ、仕組みを作っていった感じです。
——10年もの歴史があるんですね。
確かに、もう10年経ったんですね。あっという間ですね。本当に10年間、めちゃめちゃ早かったです。
——Yozoさんはもともとコーヒー好きだったとのことですが、最初にコーヒーと出会ったのはいつ頃だったんですか?
両親がすごくコーヒー好きだったんですよ。母が家でずっと、ハンドドリップでコーヒーを淹れていた思い出があります。幼い頃に見たそんな母の姿が、コーヒーの原体験ですね。
それと、父と母がそれぞれジャズ喫茶を営んでいたことも大きく影響したと思います。父は実家でジャズ喫茶兼ゲストハウスをやっていて、母は寺町二条で「NICA」っていうジャズ喫茶をやっていたんです。そういった両親の原点のようなところから、僕もジャズが好きになりましたし、同時にコーヒーも幼少期から日常的に身近な存在で、生活の一部として自然に受け入れていました。
——コーヒーがずっと生活の中にあったんですね。
当たり前のようにそこにあるものでしたね。
京都で生まれ、4歳でニューヨークへ
——さきほどYozoさんの幼少期の話になりましたが、お生まれは京都ですか?
はい、京都生まれです。京都御所からちょっと北に上ったところに実家があります。出町柳の「桝形商店街」の近くですね。
——歴史がある商店街ですよね。
豆餅で有名な「出町ふたば」さんがあったり、映画館が出来たりして、今でもめっちゃ活気がありますよね。雑誌でも特集されたりして。
——人気のエリアですね。そこで生まれて、海外に行かれたとか。
4歳のときに、ニューヨークに引っ越しました。保育園は日本で通って、幼稚園からニューヨークです。
——ご両親のお仕事の都合ですか?
父親が画家で、絵を描くためにニューヨークへ行って行ったり来たりしていたんです。父がニューヨークに本格的に拠点を移したタイミングで、元々アメリカに憧れがあった母と僕もニューヨークへ行くことになりました。
ただ、そのあとすぐに両親が離婚してしまって、母と僕の二人だけでニューヨークにそのまま住み続けることになりました。そこから6年近く、10歳頃まで、ニューヨークのマンハッタンに住んでいましたね。
——そんな幼いときにニューヨークに渡るって、どんな感じなんだろう……
最初にニューヨークの空港に降り立った瞬間の情景や、ブルックリン橋を渡ってマンハッタンに入るときの情景を、めちゃめちゃ鮮明に覚えていますね。「京都と明らかに違う場所に来たな」というのを子どもながらに感じました。
でもやっぱり子どもって、順応が早いんでしょうね。気づいたら、自然にニューヨークの環境に溶け込んでいました。入ったのは普通の公立学校だったんですが、いつの間にか英語も喋れるようになっていましたし。
「多様であること」が当たり前の子ども時代
——日本人学校ではなく、普通の公立学校に入られたんですね。
そうですね。ニューヨークでの学校生活には、いい思い出しかないです。
クラスにはいろんな人種の友達がいました。まず親友がタイ人の女の子だし、ほかに記憶に残っている友達も、アフリカ系アメリカ人の子、中国人の子、スコットランドの子、イタリア系アメリカ人の子など、いろいろです。
人種の違いとか全然関係なく、いろんな人がいるのが当たり前の日々を過ごしていました。そういう環境が、今の自分自身のパーソナリティや価値観の基礎になっていると思います。
——日本人としてそこにいても、違和感なく馴染めたんですね。
子ども同士だから自然に共存できたっていうのもあると思います。
僕も当時は幼かったので詳しくわからない部分もあるのですが、母は「外国人のシングルマザー」として苦労していたようです。見知らぬ異国の地で、一人でちっちゃい子供を育てるのってすごく大変だったと思うんですよね。母はもともと日本で英語教師をしていたので英語の能力はあったんですが、ネイティブレベルというわけではなかった。
当時のアメリカって、今よりもっと差別的なことが多い環境だったんです。普通に銀行に行って、普通の取引をしたくてもめっちゃ怒鳴られたり、人種のせいで見下されていることを感じました。普通のことをしたいけれどもやらせてくれない。お店で僕がトイレに行こうとしても、明らかに人種のせいで入れさせてくれなかったりした思い出もあります。
——苦労があったんですね。
でも同時に、すごく優しい人たちもたくさんいたな、って思い出もあります。
僕が英語をしゃべれるようになったきっかけはセサミストリートのカセットテープなんですが、そのカセット、ある日地下鉄で見知らぬおじさんが「これどうぞ」って渡してくれたものなんです。別に営業とかでもなんでもなく、良かったらどうぞ、みたいな感じで。
セサミストリートのキャラが、アルファベットに乗せて歌を歌うカセットで、それを毎晩聴いて、英語を覚えたんですよ。
——素敵なエピソードですね。
あと、母と地下鉄に乗ろうとしていたとき、タイミングがズレて僕だけ先に電車に乗り込んじゃって、母が乗る前に扉が閉じちゃった事件があって。
——けっこうやばい状況じゃないですか!?
そのまま電車が動き出しちゃって……ニューヨークの80年代後半から90年代前半ってめちゃめちゃ危なかった時代で、母もかなり焦ったと思います。
でも、そのとき電車の中にいた人たちがみんな僕たちを手伝って、助けてくれたんですよ。車掌さんに「電車を止めて」ってみんなが言ってくれたり、それでも止まらなかったから、次の駅まで一緒に乗って、一緒に降りて、「大丈夫だよ」って安心させてくれたりとか。
そんな感じで、差別的な扱いを受けることもあったけれど、親身に接してくれる人に出会うこともありました。やっぱり何事にも両面がありますよね。
世界中を行き来する「バランスの良い人生」
——ニューヨークにはいつ頃まで住んでいたんですか?
10歳までニューヨークにいて、小学4年生ぐらいで京都に帰って来ました。普通の公立小学校に戻って。
——環境に大きなギャップがあったんじゃないですか?
文化が、すごく違いますよね。仕方ないし、それも子どもの適応力で何とかなるんですけど。でも、「ニューヨークに戻りたい」とはずっと思っていました。
例えば「体操服着なアカン」「水着も同じやつを着なアカン」、そういう考え方ってアメリカにはないので。体操服にめっちゃでっかい名前のワッペン付けられるのも、恥ずかしくて(笑)
——ランドセルも、日本ならではですよね。
そうそう。ランドセルも含めて「みんな同じものを使う」っていう概念がそれまで自分の中に存在しなかったので、その文化に馴染むのに時間がかかりましたね。あと、「女子」「男子」っていう言葉も僕にとっては不思議だった。それぞれの性別でグループができるじゃないですか。年頃っていうのもあるのかもしれないですけど……
それと思い出に残っているのは、同級生の女の子を下の名前で呼んだら怒られたこと。アメリカって、「Hey Yozo」みたいに下の名前で呼び合うのが普通じゃないですか。そのノリでクラスの女の子を下の名前で呼んだら、女子5人ぐらいのグループに「こんなん言ったらダメなんだよ」って怒られて。「名前で呼んだらダメ」の意味がその時理解できませんでしたし、めっちゃ今でもトラウマです、普通に名前を呼んだだけやのに(笑)
そういう細かいことを言ったら本当にきりがないぐらい、日本の環境への違和感はありました。もちろん楽しいこともたくさんあったし、お友達になれた人もいっぱいいるけれど、やっぱり何かちょっと合わなかったっていうところがあります。
——ニューヨークの方が合っていたんですね。
やっぱり、幼少期を過ごしたのがそっちだったから。もし順番が逆だったら、印象も逆だったと思います。
——10歳までを過ごす場所の影響は大きいですよね。
でも、ここまでの人生全体を見ると、これが良かったと思うんですよ。だから、どの場所での経験もすごくありがたいと思っています。
京都で生まれてニューヨークに行って、10歳で京都に戻って。そのあと高校でカナダに行って大学時代までを過ごして、東京で就職したんです。その3〜4年後にシドニーに行ってKurasuを立ち上げて、そのあとシンガポールにちょっと住んで、日本に戻ってくるんですけど……人生の中で、すごくバランス良く日本と海外をあちこち行ったり来たりできていて。
文化的なところはもちろん、言語の面でもありがたいと思っています。例えば、小っちゃいときにアメリカで過ごしても、10歳で日本へ戻ったあとずっと日本にい続けたとしたら、10歳レベルの英語力しかなかったはずなんです。そしたら、ビジネス会話はなかなか難しかったんじゃないかなと思っていて。逆もしかりで、日本で働いていたからこそ日本語でビジネス会話を出来るようになったし。そこのバランスがすごくラッキーだったなって。
両方のカルチャーを知っていて、いろんなシーンで日本語と英語の言語対応ができるっていうのは、今Kurasuで国内・海外の両方に事業を展開するのにもすごく役に立っているというか、アドバンテージがあると感じます。
「勉強をする理由」がわからなかった
——高校からカナダに行かれたとのことですが、そこにはどういう経緯があったんですか?
ずっとアメリカの環境に戻りたくて、「どうしたら戻れるんやろ」と考え続けていたんですよね。中学時代、ニューヨークの学校に入学が決まったんですけど、ビザの関係で行けなくなってしまったこともありました。ビザを取り直して「今度は行けるんちゃうかな」「やっぱり行けへん」みたいなことを繰り返したりもしましたね。
中学校は、はじめ京都のインターナショナルスクールに行って、3年生から上京中学校っていう地元の中学校に通い始めたんですが、途中で転校したので学業も中途半端だったんですよ。中1・中2の勉強を日本のカリキュラムでやっていないのに、いきなり中3から普通の公立校の勉強をしないといけなくなって、数学とかも全部途中から始めることになるし……
——それは難しいですね。
基本的に勉強もしたくなかったし(笑)型にはまった勉強がめちゃくちゃ嫌いで。勉強をする理由が理解できなかった。今もそうなんですが、勉強するなら何かの為にやりたいという気持ちがあったんですよね。
中学受験とか高校受験とかって、「最終的に良い企業で働くために今からやっておこう」みたいな感じで言われることがあるじゃないですか。でもそこの因果関係って遠すぎるから、めっちゃイヤやなと思って。
アメリカやカナダでは、高校まではけっこう自由にさせてくれるんですよ。「勉強もせんでええよ」「やりたかったらやりな」みたいな感じ。ただ、大学がめっちゃムズイ。よく言いますけど、大学に入るのは簡単だけど、卒業するのはめちゃくちゃ難しいんです。日本の大学は行ったことないけど、聞いたところによると大学卒業するのはそんなに難しくないとか。
——確かに、日本とは逆ですね。
でもね、わからないじゃないですか。中学校のときに、将来自分が何をやりたいのかなんて。大企業で働きたいのか、自分でスタートアップをやりたいのかすらわからない。そういう中で「将来のために勉強せんとアカン」って言われても、その意図がよくわからなくて。
それに加えてさっき話したカルチャー的な部分の違和感もあって、解放されたくて、カナダに行きました。悪い言い方をすると、逃げ出したかったのかもしれないですけど。
カナダの田舎町で、スターになる
——行き先にカナダを選んだのはなぜですか?
ビザの関係でアメリカに行けないので、「それならカナダにしよう」ということで。交換留学で行ったのでカナダのどの場所に行くかは自分では選べなくて、ニューファンドランド島という、カナダ東部の島に行くことになりました。
島にあるセント・ジョンズという地域に留学したんですが、そこはもう「ド田舎」。ニューヨークは人種が多様だったと言いましたが、セント・ジョンズには白人しかいない。ニューファンドランド島に1年住みましたが、白人以外の人は一度も見かけませんでした。
——ニューヨークと全然違う環境ですね。
でも、楽しかったです。めっちゃ楽しかった。みんな優しかったし、なんだか「スター」みたいな感じだったんですよ、僕。
——スター扱いだったんですか?
地元の人にとって僕は、初めて見るアジア人、初めて見る「違う人種の人」だったんです。そもそも、エリア内に白人以外の人が僕しかいないから、どこに出かけてもバレる。「日本人が来てるよ」みたいな感じで、みんな知ってるんですよ。田舎町だし。ショッピングモールに出かけても「あ、Yozoだ」みたいな感じで、スター気分でした。
それでいじめられたり、差別されたりしたら別ですけど、みんなすごく優しかったんです。僕がセント・ジョンズでうまく暮らしていけるように考えてくれて、「楽しくしてる?」「大丈夫?」って声をかけてくれたりもしました。
初めて住む場所だし、わからないことが多かったんですが、そんなときいつも周りが優しく接してくれました。映画でよくあるプロムみたいなものがカナダでは普通にあるんですけど、そういうダンスパーティーに誰とどう行ったらいいか、わからなくて。そんなとき「一緒に行こう」って言ってくれる友達がいたり、「ダンスってこうするんだよ」って教えてくれる友達がいたり、そういうふうに過ごす中で新しく友達ができたりしました。
——高校生でみんな踊れるんですね。なんだか大人な感じがします。
そうですね、自動車免許も16歳で取れるんですよ。僕もそれぐらいのときに免許を取って、車も買いました。
——車があればフリーダムですね。
逆に、車がないと本当にどこにも行けない地域なんですよ。その後、カルガリーという街に引っ越したんですが、そこも車が無いとなかなか移動できない場所でした。
あの辺りって4〜5か月くらい、いわゆる秋から春に掛けてずっと雪が降っているんですよ。気温もマイナス40℃とかになる。だから僕は、マイナス40℃で、めっちゃ雪が降ってて、めっちゃ凍っている道の上を運転するのが得意です(笑)
——そんな機会、日本ではたぶんめったにないですよ(笑)
(次回に続く)
Yozoさんのユニークな半生、たくさんのお話で盛り上がったため一本の記事では書き切れませんでした。というわけでこのインタビュー企画、連載化いたします。
次回はYozoさんの大学時代〜ご本人が「ラッキー」と語る就活のお話、ゴールドマン・サックスを辞めて起業を志すまでに迫ります。ご期待ください!
■続きはこちら
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