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私が父の最期を看取った、あの時間のこと

今回は私の父の死のことを、書いてみようかな。

久しぶりに更新しているんですが、それは父のことを書きたくて、でもどう書いていいか難しくて下書きを作っては消していたんですが、結果的に『ライトに書く』ことに決めて、更新です。

私の父は62歳、今年の6月に亡くなりました。肝臓癌がわかって多分1年くらいかなあ。ほぼ余命通り。ずっと余命というのは聞いていたけど、まあーーーー辛かったです。

私は昔から母と仲が悪く、父とはずっと仲が良くてこの1年は多い時は月に1−2回くらい出かけていたし、父の孫である私の娘とはとーっても仲良しだったので、もう本当に悲しかった。親はいつか死ぬって昔から知っていたけど、いざその時が来ると頭をハンマーで殴られまくったような(経験はないけど)衝撃があります。

しかも、最期の瞬間まで看取ったんです。
しばらくは、あの死んでいく父の顔や表情が頭から離れなくて、夜眠るのが怖かったです。だけど、そうして良かったと今では思います。

ちょっと重い話ですが、それまでのこと、その時のこと、そこから感じたことを、書いてみたいと思います。
そういう日がいつか誰にでも来ること、それに向けてできることを想うきっかけになったら嬉しいなって。あるいは私が自分自身、忘れないうちに何かに綴りたいのかもしれないです。

癌と知って、たくさん旅をした11ヶ月

癌と知ってから入院するほんの少し前までは、本当にたくさん、色々なところに出かけていました。海外にも行ったし、福岡や熱海などいろんな所に旅行をしました。正月は兄弟も全員集まって熱海でみんなで過ごして、カニとかめっちゃ食べて笑
それから佐賀にも二度帰省して、春には山菜狩りやキャンプをして…。最後の旅は熱海だったなあ。

肝臓癌の末期だったけど、最初の方で父は抗がん剤をバッサリやめたんです。だからほぼ入院している期間がなかったんですよ。
抗がん剤をしながら生きるのが辛かったようで、延命よりも自由を選択したと言っていました。人生は長さより濃さだ!と何度も言ってました。抗がん剤をしていればもう少し生きていたかもしれませんが、父はこの決断に全く後悔していない様子でした。

去年の夏は、サイパンにて。
夏、キャンプをした思い出
去年の11月、娘の誕生日祝いをしてくれた時。
去年の12月、佐賀の帰省。
正月、みんなで年越しをお祝い。
今年の5月、佐賀にて。痩せ方に驚く。
最後の入院の時。起きるのも困難な状態。

そういえば、動画も撮ったんでした。
今年の5月の動画。

亡くなって、1番に忘れてしまいそうなものは「声」だと思いました。今はまだ鮮明に覚えていますが、数年後どうかなって。だから写真だけじゃなくて動画に残しておいたのはよかった。いつパソコンが壊れても残しておけるように、SNSにもアップして。(私はよくHDDを壊す人間なのだ!)

迎えた最期の日

最後の入院の時は、回復することを願いつつも、きっともうダメかもしれないと思ってしまうほど状態が悪くなっていて。起き上がることもできないほど弱っていました。毎日病院に通って、いろんな人が面会に来て、その都度席を外したり、また戻ったり。
わたしは長野住まいなので、この時は東京の父の家に家族で泊まりながら、毎日の通院は仕事もあって、ちょっと大変でした。

そして最期の日はお見舞いが終わって、父の家に帰宅した深夜。なか卯で親子丼を買って、ようやく食べようとした時に電話が鳴り、私だけ急いでタクシーに乗って病院に向かいましあ。娘はもう寝ていたので、旦那と娘は家に残して。

病院に着いたら、もう、衝撃。
呼吸が下顎呼吸というとても呼吸しづらそうな感じになっていて、見るに耐えない状況でした。
これは亡くなる前の兆候なんだそうです。看護師さんに聞きました。だからそばにいてあげてくださいって、そんな会話をしました。

「よくドラマであるやつじゃん」とどこか冷静な自分もいたり、さっき買ったなか卯の親子丼はもう今日は食べれないだろうな、なんて邪念的なことも思ったり、でも怖くてどうしよう逃げたいなって思う自分もいたり、死ぬってこういうことなのかなって考えたり。

いろんな感情が行ったりきたりしながら、なんとか回復しないものかなと願いながら、身体や手をさすってみる。まあ効果はない。

ずっと苦しそうに呼吸する父。
しかも、瞼が閉じれなくてずっと目を見開いたままで、、閉じようと手でやってみても開いてしまって。これが1番怖かった。

わたしはどうしたらいいかわからず、とにかく何か話してようと思っていつも通りの会話や思い出話なんかをひたすら一方的に話していました。どこを見たらいいのかわからなくて目をつぶりながら...

サイパン行ったよね、とかあの時楽しかったよね、なんて話をずーっと呟いてました。


それで、明け方4時ごろ。
父はだんだん呼吸がゆっくりになり、
心臓の機械の音がピーっという音になって、あぁやっぱりこれドラマで見たやつだってまた頭のどこかで冷静に思いながら、これって死んだってことなのかなぁとぼんやりしながら、医者が来て時刻を伝えられて、結局それで父の人生は終わりました。最後の最後は眠るような感じでした。

なぜか私はその時涙も出なくて、なんだか夢を見ているような感じでした。

その時、窓の外から光が差し込んでいるのが見えて、カーテンを開けたら美しい朝陽が見えました。思わず、撮影してもいいですかって看護師さんに聞いたら、もちろんどうぞって。それで私は父を横に、この綺麗な朝焼けを撮影してました。

悲しい気持ちが込み上げてきたのがいつだったのか全く覚えてないんですが、朝陽を撮影していたこの瞬間は白昼夢のような感覚で、そしてその瞬間を今でも濃厚に覚えていて、なんだか不思議な時間でした。

娘の名前につけた朝陽という名前。
その名前の由来になったハワイで見た感動的な朝陽、それとよく似た光景だなって思ったことも鮮明にまだ覚えています。や


思い返せばあの時間は本当にとてつもなくしんどくて、1分1秒ずつ「死」というものが私にとってリアルな出来事として刷り込まれていくようなとても怖い時間だっだと思います。
今年厄年だからか?
なんで厄年のせいにしたくなるくらい、大変でした。でもそれを越えた今、あの時間を体験してよかったって思います。

看取って死んで、わたしが変わったこと

例えば仕事のしんどいとか、旦那と喧嘩してしんどいとか、あれがしんどいとか、これまでイライラしたり感情がゆらいでしまってたことも、全て『無』に感じます。いい意味で。

また、人が死ぬということがすごくリアルな感覚として自分の中にはっきりと残っていて、だからこれからの自分の人生をどう生きていくか、どうやって過ごしていくか、そして「今日1日」にすごくフォーカスして生きるようになったと思います。

「死ななかった人は、いない」
父と死について話した時、そんな会話をしました。

確かにこれまで死ななかった人は、いなかった。だから絶対に死ぬんだと思う。
わたしもあなたも。

以前は頭でわかってても、あまりにも現実的でなくてどこか絵空事のように捉えてましたが、やっぱり父は余命通りに死んで、その死にゆく姿を見て、ようやく人は死ぬんだということを理解できたと思います。

だから死ぬ前に、たくさんやりたいことはやっておかなければいけない。わたしもこの先絶対死んで、この世界からいなくなるから。
もちろん、やりたいことができるうちに。

あるいは、やりたくないことに時間を使うことを避けたい。それはとてももったいない、人生は長くない。

1日ずつ、自分がやりたいことを全部詰め込んで、満足して寝るのだ。
1つずつ、それでいいのかを自問自答して確かめて、これがいいと思うことを選んで生きていくのだ。1日ずつをないがしろにしては、ダメなんだ。

きっと「人生の成功」というのは成果や結果がもたらすものでもなく、わたし自身がこの日々を楽しみつくし、幸せだと感じられた時、それこそが成功していると言える状態なんだと思うようになりました。

だから今では起きてから寝るまで、その時々やりたいことをほぼやり遂げて寝るようになりました。今日はピアノを弾いてみたいとか、写真を撮りたいとか、絵を描きたいとか、旦那とご飯食べてお酒飲みたいとか、やりたいことは1日ずつ全部やってます。1日ずつを自分でコーディネートしていくような感覚です。

生まれ変わるのは死んだ人だけじゃなくて、残された人もまた違う意味で生まれ変わるんだなぁと思いました。

だからもしこれから、周りの人の最期が来る人がいたら、看取ることには意味があると思うし、そうしてほしいなと思います。怖いし大変だけど、出来る限りそうしてほしい。

しかし、あまりに価値観が変わったので、時々父のお化けに乗っ取られたのかな?!なんて思うのですが、まあそんなはずはないか。

ちなみに、夢に出てきたのは49日すぎてから。「夢に出るよ」って聞いてたから、いつ出るかなーってなかば楽しみにしてたんですけどね!

ようやく49日すぎて現れたんですが、それが父じゃなくて、父に似た人がたくさん出てくるんですよ。ちょっと太ったそっくりさんとか、若干老けてる人とか笑

スポーツカーで通り過ぎたそっくりさん、
飲み会にすわってるそっくりさん(笑)
何度もみるのでだんだん笑えてくるんです😂

わたしがあの世に行った時、父に会えたら「あれ、なんなん?w」って聞いてみたいです。



おわり

最後まで読んでくださってありがとうございました!

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