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わが町「きたまち」と奈良女子大学

こんにちは。お薬アドバイザーの井田です。
今回は薬の話は休憩で、わが町「きたまち」の一端をご紹介したいと思います。

「ならまち」と呼ばれる猿沢池の南に広がる世界遺産元興寺の周辺地区は、町家や多くの寺社が醸し出す懐かしい風景で広く知られるようになり、細い路地や抜け道は多くの観光客で賑わっていますが、今さらに奈良の「きたまち」と呼ばれる界隈に多くの観光客が足を運んでいます。

「きたまち」という名称の行政地名はないのですが、奈良市の「北にあるまち」、喜び多い「喜多」という意味が掛け合わされて、現在親しく「きたまち」という呼称が使われています。具体的には近鉄奈良駅から北の地区を指しているのですが、今日広く知られるところとなり、様々なガイドブックや奈良県、奈良市のイベントでも頻繁に取り上げられるようになりました。
「きたまち」の魅力は何といっても歴史の深さです。奈良時代から近代までの興味深い歴史が重層しており、歴史好きの方にはとても魅力的な地域になっています。

奈良時代の東大寺・転害門や般若寺、聖武天皇御陵、鎌倉時代の北山十八間戸、戦国時代の松永久秀居城の多聞城跡、江戸時代の奈良奉行跡で明治後期建設の現奈良女子大学や旧奈良監獄等の近世の建築物等、各時代の魅力的な歴史サイトが目白押しです。

この度のメルマガでは、ご近所、奈良女子大学を取り上げご紹介させて頂きたいと思います。

奈良女子大学は重要文化財になった旧奈良監獄(近々ホテルに生まれ変わります)と同様、明治41年(1908年)に旧奈良女子高等師範として創設されたもので、2009年に創立100周年を迎えました。木造の記念講堂や守衛室、正門は近世の優美な洋風建築として平成6年に重要文化財に指定されています。
この奈良女子大は前述のように奈良奉行所の跡地で、江戸時代の初期から42代にわたる奉行の元、奈良町や周辺の村々、そして寺社領の行政と治安の任にあたってきました。その敷地はほぼ8,700坪にも及び、大坂町奉行所の2,960坪、京都町奉行所5,300坪、堺町奉行所5,000坪等と比べても近世の奉行所としては類をみない程の広さでした。

ほぼ正方形の敷地は堀で囲まれ、堀の内側には高さ3.6m程の土手があり、さらに土手の上と堀の外側には土塀を巡らせる景色が江戸末まで続きました。
奉行所内部は奉行が政務を行う書院公事場、白洲、吟味所、公事人溜り、与力詰所等の役所向きの建物と、奉行やその家来の住居、庭園、牢屋等が配置されていました。東にあるキャンパス正門の前には道路を挟んで、現在学生寮になっている与力の屋敷敷地があり、江戸時代の古図を片手に大学の正門の前に佇みますと、かつての奈良奉行所の姿をしのぶことができます。

奈良は歴史的にどうしても東大寺、興福寺等が創建された奈良時代や多くの仏像が作られた鎌倉時代にスポットライトが当たるのですが、松永久秀が活躍した戦国時代や奈良町奉行所が管理していた江戸時代、そして明治以降の近世にも名建築を始め貴重な文化、歴史が豊富に蓄積されていることを、あらためて「きたまち」散策を通じて知っていただければと思います。

今回はその一つとして旧奈良奉行所の奈良女子大学を紹介させて頂いたのですが、現在コロナ禍でキャンパス内には立ち入ることができませんが、解除された後記念講堂の内部も含め一度見学の機会を持たれればと思います。キャンパスには奈良公園から遠征してきた鹿の群れがのんびりとグラウンドの芝を食む光景が広がり、木造の温かさを感じる建物の中で100年前のピアノの音も楽しむことができます。

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