
自分の悩みが分からない
”自分が何に悩んでいるのか分からない”
"なんとなく不安な気持ちになる"
"生活に困っているわけではないのに生きるのが辛い"
そういう声を耳にする。
そういうことを口にすると、
"何を贅沢なこと言っているんだ"
"あなたは人に甘えて生きてきたからよ"
と、𠮟責を受けることがある。
家族や友人に相談してみても、
"それって幸せなことなんだよ"
なんて軽々しく扱われ、その先の深堀りがない。
余計に気持ちが晴れなくなり、漠然とした悩みを抱えた人たちは、
その悩みを身体に溜め込む。
悩みのモヤモヤは心のなかで充満していき、
次第に気体から液体に、やがて固体化して堆積し、
心の隙間をどんどんと埋めていく。
心のメモリはじわじわと侵食されていき、
喜怒哀楽の感情が徐々に現れないようになってくる。
それでも、周囲からは以前と変わりない普段通りの生活を過ごしているように見られている。
自分でも、だんだんと漠然とした不安に対する感度が下がり、
心も脳も冴えない漫然とした毎日が続く。
その状態の生活に色彩の豊かさは無く、単一なグレーになる。
それでも、事柄の輪郭は分かるし、家事も仕事もできる。
車の運転だってできる。
生きていることに変わりはないのだけれど、
芸術に触れて感動したり、誰かと話をして盛り上がったりできなくなる。
花弁が髪に触れるくらい間近で目にする満開の桜も、
手元の小さな画面に表示される映像の桜も、
同じ桜に見えてしまう。
心は動かない。
コンクリのように固くなったモヤモヤの塊で、
心のメモリが完全に埋まる寸前になり、身体に様々な不調が出る。
病院に駆け込むと、よく耳にする病名とカタカナの薬を与えられる。
それでも、心にカチカチに固着したモヤモヤの塊が消えるわけではない。
塊は、もう溶かすことのできない状態になっているから。
侵食された心のメモリの大きさを元に戻すことは難しくて、
小さくなったメモリでも生きていける方法を探すことになる。
長くて苦しい生活が始まる。
このような状態に陥ってしまっている人が、増えてきていないだろうか。
どうすればいい?
これ以上、こんな人が増えてはいけない。
"何だか分からないけど、不安"
身近にいる誰かが呟いたこのメッセージを、
軽視してはいけないのではないか。
この言葉を発するのは、時間と生活に余裕がある人。
だから、誤解される。
金銭的、身体的に困窮している人は、一目で分かるけど、
心が困窮している人は、生活に余裕があるように見られてしまうから、
真正面から向き合ってもらえない。
人間、時間を持て余すと、
"生きている意味って?"
"幸せとは?”
といった人生の意義を考えてしまう習性があるらしい。
でも、それらに答えなんてない。
そういうことを真剣に考えて、"これが答えなんだ!"
って自分で進むべき道を見出した人を、私は知らない。
過去の偉人たちも、これらの問いに対するいくつかの指針は示せても、
明確な回答は用意できなかった。
思い悩む人は、真面目な人が多いから、
答えのない問いに向き合おうとしてしまっている。
”思い悩むことは意味のないことだ”ということを知り、
自分自身に悩む隙を与えないように、常に動き続けないといけない。
行動しないといけない。
その行動が、自分以外の誰かのためのものであれば素敵だと思う。
戦争や貧困で、今日を生きることで精いっぱいの人に、悩む余裕はない。
だから、"何だか分からないもやもや…"という人は、
平和に生きていると言える。
だけど、その平和の副産物を甘く見てしまってはいけない。
心のメモリを侵食され、情緒や道徳心を失ってしまった人。
そういった人が増えるにつれて、過激な表現、対立、争いが増えていく。
"何だか分からないけど、不安"
身近な人が呟いたその言葉に対して、
向き合うことができるか?寛容になれるか?
人類全体の心のメモリが小さくなっているいま、
それが問われている気がする。