めんどくさい、と言う前に。
先日とある方とお話をしていた時にたまたま年齢を聞かれ、答えると「思ってたよりお姉さんだった」ということばが返ってきました。
(「お姉さん」って、素敵な言い回しですよね。)
こういう活動をしていると年齢はあまり意識しないのだけど、活動の内容から「若い人」と思われている節もあり…実はそんなこともないのです。
で、先日スタッフが「美容院で見た雑誌に、45歳過ぎてからの"めんどくさい”は禁句、っていう記事があったよ」と話していて、心当たりがあるなあ…とちょと怖くなりました。
その記事はお化粧や美容、ファッションに関することだったようなのですが、私の場合、例えば「朝起きるのがめんどくさい」とか「ごはんを作るのがめんどくさい」とかは全然ないのだけど、あれこれ気をもんで心配するのがめんどくさい、何か言われて反論するのもめんどくさい…とにかく「あーめんどくさい」「あー飽きた」と思うことが、ここ数か月でたびたびあり、これは歳のせい?と思っていたのです。
動くことがめんどくさい、ということはないし、読書は相変わらずガツガツやってるから知識欲が低下しているわけでもない、これは何だろう?とよくよく考えていると、もしかして「感情を動かす」ことがめんどくさいのかもしれない!ということに思い当たりました。それってヤバいのでは…と、怖くなったのです。
気を遣ったり、相手を慮ったり。人生をスムーズに進んでいくのに、とても大切な「気働き」の部分が億劫になると、不寛容になったり、相手を思いやることができなくなったりします。それって、感情が老化に向かっているということなのかも。
怖いのは、自分がやがて「行動する」ことさえも面倒に感じるようになるのか、と思ったから。それって、ただのものぐさなおばさんじゃないですか!
そこで、感情を老化させないために何が必要なのかな…と考えると、「想像する」ことだと思い至りました。
いま自分がめんどくさがることで、誰かが嫌な気持ちになったり、余計な気を遣わせたり、腹を立てさせたりすることがあるかもしれない。そんな風に想像してみる、意識をちょっと先の未来に置いてみる。今までは当たり前にできていたことを、努めて意識してやる、ということが、いい歳の重ね方ができるかできないか、の分かれ道かもしれない、と考えています。
幸い、私の周りには、歳を重ねてもちゃんと視野を広く持ち、相手のことを慮って相対してくださる人生の先輩が本当にたくさんいらっしゃいます。「めんどくせー」という気持ちが脳の中に生まれたら、そういう先輩たちのことを思いだして、「ダメダメ!」と自らを律していこう、と、2019年思いを新たにしました。
スタッフ同士でも、「めんどくさいー…」と誰かが言うと「めんどくさいって言っちゃダメ!」とチェックを入れるようにしています。
ついつい口癖のように出てしまう「めんどくさい」というワード。こうやって相互監視の下、感情の老化が進まないように、いつまでもときめきを維持できる自分であり続けたいものです。