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試合開始か、歌唱終了か。
随分昔にある人と逢瀬を重ねた店は、街の区画整理で姿を消していた。
レンガ造りで2階建の2階にあったアジア料理店。そこで何度も逢った。なぜ「逢瀬」かというと、その人には恋人が居たから。仕事で遠くにいる彼と会えない寂しさから、彼女は僕と逢瀬を重ねた。
昔から、関係が成立することで生じる責任感から逃げたくなるところがある。どこかに所属したい気持ちとは裏腹に、そこから抜け出したい感覚もそっと抱えてしまう。どういう関係性、コミュニティにおいてもそうだ。
だから、あの人との逢瀬は僕にとっては寂しいものではなく、多分きっと、ちょうどよかったと感じていたように思う。そういう特性が相手に知れると、相手から軽んじられることもわかっているけれど。
店の跡地を通り過ぎるまで、遠い季節の逢瀬のことなんて一瞬でも思い出すことはなかった。
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その店が姿を消したと知った散歩の帰り道。
カバンのキーホルダーがカーブミラーの支柱に当たって「カーン」と響いた。
何戦目かの試合開始のゴングか、素人のど自慢の歌唱終了合図の鐘か。
振り返ってミラーに映る自分を見た時、試合開始じゃなくて、歌唱終了だと思った。
そう思った瞬間、ラジオ番組のラストソングで小島麻由美の私の恋人という曲がイヤホンから流れてきた。
嫌な夜だと思った。