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【文学朗読劇『こゝろ』についてのノート⑥】

朗読+劇=朗読劇?

 今回の上演形態は「朗読劇」です。朗読でも、劇でもなく、朗読劇。それはつまり、朗読と劇を足したようなものなのででしょうか。それとも足して二で割ったようなものなのでしょうか。朗読劇とは何ぞやの解釈は人によって違うと思いますが、今回は私の考える朗読劇について書いてみたいと思います。

朗読と劇の違い

 一口に朗読と言ってもいろいろあって、アナウンサー的な「読み」を重視した朗読もあれば、俳優が「語り」で演じることを重視した朗読もあります。それぞれ朗読によって起こしたいこと、伝えたいことが違うのだと思います。しかし、どれも共通しているのは「テキストを持っている」ということです。それはテキスト(文章)と演者(読み手、語り手)に距離があることを視覚的に示しています。そして、その距離はテキストとの向き合い方によって、自在に操ることができます。
 劇にも、もちろんいろいろありますが、共通しているのは演者の「身体性(声と肉体)にもとづく」ということです。演者は他者や時間、空間との関わりをイメージし、反応することで身体性のバリエーションが生まれていきます。
 「テキストを持っている」ということは「身体性」に制限がかかることになりますし、演者の発する言葉が身体の内側から生まれているものでなく、身体の外部にすでに存在していることを観客に明示します。俳優は朗読もやりますし、劇もやりますが、言葉と身体の関わりという観点から言えば、朗読と劇はほとんど真逆と言ってよいベクトルの方法論になります。「劇的な朗読」「朗読的な劇」がそれぞれ、普通じゃない朗読、普通じゃない劇のように感じられるのもそのためです。
 では、朗読劇とは身振り手振りや表情などの感情表現が豊かな朗読なのでしょうか、それとも演劇的な身体を想像させるような声の劇なのでしょうか。実際、朗読劇というと、そのどちらかなものが多いのも事実ですし、それはそれで需要も必要もあります。私も好きです。しかし、今回、私がやろうとしているのは、そのどちらでもありません。それは今回の上演空間と関わっています。

昼間の上演空間

上演空間と朗読劇の拮抗と融合

 私は観劇とは「特別な磁場の空間の中で、演者や他の観客という人間と、一定の時間を過ごす」という体験だと思っています。そして、観客それぞれが、それぞれの空間と人間と時間を受け取り、想像してくれれば良いと考えています。今回の「日みつ」という空間は特別な磁場をもった空間です。その空間と拮抗し、最終的には融合する言葉として、漱石の『こゝろ』を原作にした作品を選びました。
 漱石の『こゝろ』は文学作品です。名作文学といってよいでしょう。文学作品を読むという行為は、作家という他人の書いた言葉、つまり自分とは距離のある言葉を傾聴する行為に似ていると私は感じます。
 一方で、すぐれた文学作品は、私たちの感情を大いに揺さぶります。往々にしてそれは登場人物たちの心の揺れの言語化によって引き起こされます。その時、読者は今まさに自分の心が動いていると感じます。
 私は前者を朗読的体験、後者を劇的体験とし、朗読劇という上演方法によって俳優がその両方を行き来することで身体的な葛藤を増幅できないかと考えています。そうすることで、空間に拮抗する人間を存在させ、濃い時間を流すことが可能になるのではないかと推測しています。そうです、今はまだ仮説です。
 明日の稽古で、俳優にはテキストを深く味わってもらったうえで、明後日からは上演会場に入り、実際の空間で検証していきます。秘密の実験みたいですが、どうぞお立会いくださいませ。

夜の上演空間

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