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【ご報告 / 鳥取にUターンしました】

各SNSでご報告していますが、大学進学を機に11年間過ごした京都を離れ、地元である鳥取へUターンしました。

各所で長文で綴るのもなんだかなぁと思い、noteでUターンに至った経緯や今後どうしていくか、また私が出来ることや関係プロジェクトについてまとめておこうと思います。(まぁここでも長いので、気になる方はご覧ください!)

Uターンに至った経緯

大学を卒業し、何社か転職しWeb業界で仕事をしていた私は、昨年2月に卵巣嚢腫による手術・入院を行いました。手術は成功、回復し復職して元気にやっていましたが、昨年後半から心身を崩す状況が続き、ふと気付いた時にはだいぶ参っていた状態でした。自分でも気付かない内に負荷をかけていて、常に自分を追い詰めたような状況でした。家に帰ってもベッドから身動きが取れない。朝起きられない気がして寝るのが怖いという不眠状況が続いていて、長らく不安定な状況だけれど、人と会う時は何時もの元気な私でいたいし、誰かと会えば元気になれる!大丈夫!だから辛いのかよく分からないけど大丈夫!というような感じでした。今覚えば、相当ヤバかったですし、医師からも「もうちょっといってたら取り返しつかなかったかもね」と言われてたような。

2019年早々に、家族と医師の相談の上、いろいろなタイミングも重なり、急ではありましたが退職を申し出て、1月末で所属していた会社を退職をしました。

退職願いを出してからは、京都と距離を置きたい状況で。早々に鳥取の実家に戻って寝れるように体調を戻したり、関東方面や中国地方、関西の友人や会ってみたい人達に会って、近況報告やアドバイスをもらったりだとか、引越しするまで京都にいない時間の方が長かったです。

数年前から「当時所属していた会社を辞めたら京都にいれないな。転職する気も独立する気も全く湧かない。」と思いながら生活していて、鳥取に戻る選択肢というのはずっと心のどこかにありました。

今回は心身を崩してしまったということと、別の地で1人暮らしをする状況では全くなかったので、回復に努めるため、京都の家から鳥取の実家に戻ってきた形となります。

鳥取に戻っても良いなと思った理由

私は、純粋な鳥取育ち。家系は、江戸時代から続く鍛冶屋の血筋で、亡くなった祖父の代で家業は無くなりましたが、鳥取の民藝家・吉田璋也がデザインしたパン切りナイフ・フルーツナイフは、かつて曽祖父や祖父が作成したりというような家系です。私は祖父が鋼を打つ音を聴きながら育ちました。(現在、パン切りナイフは、智頭の大塚刃物鍛治さんが引き継いで作成してくださってます。「廃業する前に頼みに行ったんだよ〜」という話を小学校低学年の頃にされたのを覚えています。)

そんな家系でもあり、両親が教師であったり、名前が珍しい漢字であったりと、まぁそんなつもりがなくても、鳥取で動くと常に見られている気持ちになるのです。「あぁ、クラタさん家のお嬢さんね。」と。

周りの目が怖く、また人一倍自分に自信がない性格なので、高校までの18年間はずっとネガティヴ思考優位で過ごしていましたし、京都に進学してから実家に帰省する度、「実家は安心出来るけど、小中高校の友人達も少ないし街に出ても何もない。」というような思いで、卒業後、就職でUターンということを考えることはありませんでした。

思考が変わったのは、昨年開催した父の個展を通してで。個展活動の中で、鳥取で活動するプレイヤーと多く知り合えたことが大きく、特に同世代のフリーランス達、アート関係者やクリエイター、カメラマン、他のジャンルでのプレイヤー、個性豊かな人が多く面白いな、と。特にIJUターンで鳥取にいる人が多く、20代前半までに感じていた世界と違った世界が広がっていました。

「あぁ、この土地で自由にやっても良いんだ。」

と。

私という存在が上手くはまらないかもしれないし、元々持っていた内向的な性質がより強くなって引き籠るかもしれない。それでも、このゆっくりした時間の中で心身を休めながら、やりたいように動いてみても良いんじゃないかな、と。

20代から30代に切り替わるラインも見えつつあったので、「鳥取を拠点にして活動していくのもアリだな〜むしろ京都よりも面白いこともあるし、自分の時間が取れそうだな〜」と思い、鳥取にも戻って良いなと思いました。まさか、こんな形で早々と戻ると思わなかったけれど…苦笑

京都はいつまでも大好きな第2の故郷

11年間いた京都は大好きな街。それこそ、第2の故郷と呼ぶべきです。

京都精華大学に進学した私は、大学4年間を岩倉で過ごし、社会人7年間は大宮と西院の間にある壬生に住んでました。両方とも住みやすくて本当に楽しかった。
左京区独特のワンダーランド感も木屋町・先斗町にサッと行ける距離間、ディープな西院・大宮エリア、本当に楽しかった五条での日々。自転車があれば、どこにでも行けるし、終電を気にせず飲み続けられる。コンパクトサイズ。知り合いの知り合いは、知り合い。そこから繋がる交友関係。大阪にも、東京にも、鳥取にも、他の地域にも、容易にアクセスが出来る。どこにでも行ける。ここから始まる。本当に最高の街でした。

社会人の7年間も超楽しかったんですが、京都精華大学で過ごした4年間は私の土台です。学生ながらにいろんな経験をさせてもらいましたし、セイカ出身だから見えてくる景色も違う。「デジクリ」「dotFes」「media chips」「オレンジ」、いろんなキーワードがあって、いろんな人と知り合えた。

私がセイカと運命的な出会いを果たしたのは、それこそ12,13年前の高校2年生の頃なんですけど、あの時の直感を信じて、セイカに進学して良かったなと改めて思います。

京都で知り合った全ての方にご報告やお会いしたり挨拶をしたりすることが状況的に難しく、今回の投稿で知った方々、驚かせてスミマセン。

京都を通してお会いした皆さま、本当にありがとうございました。楽しい11年間でした。

クラタが出来ること・関係プロジェクト

先日noteにポートフォリオをまとめた旨を載せましたが、それを通して私が何者でどういうことが出来るのか、というのはちゃんと残しておいた方が良いなと思ったので、簡易的ですがここに綴ります。

【 クラタが出来る事 】

・イベントやワークショップ企画・運営 / 情報発信
・イラスト制作 / イラストを使った議事録、メモ(グラレコではない)
・Webサイトの企画・設計 / フロントエンド / Wordpress構築
・人繋ぎ、営業、チームの聞き役
・ライティング、文字起こし / イベント記録映像撮影 / アーカイブに関する諸々

グラレコは仕事に出来るレベルとは言えないので勉強中です:)
【 関係プロジェクト(進行中と過去のもの含む) 】

・dotFes
・PLAYFOOL Workshop
・セイカハッカソン
・media chips
・UX Kyoto

企画・運営として動く事が多く、運営・サポートを主軸に関わっています&ました。

人からは、「切り込み隊長」「人と接点を作るのが上手い」「人繋ぎビッチ」「コミュニケーションモンスター」と評されることが多く、話し下手な身としてはそう言われるのもなんだかなぁと。

職人気質で目の前のことにグッと集中してしまいがちなのですが、チームでプロジェクトを進める際にはサポート的な立ち位置が多く、「どうしたらこのプロジェクトが良い方向に進むか、面白い方向に転がりながら前進出来るか」と考えながら接続点を探して繋いでいくことが好きで、よくやってます。

結局のところ、根底にあるのが「好奇心」というものなので、それが充たせる、刺激出来るものであれば、飛び付きやすいです。笑

非公開ですが、ポートフォリオにこれまでのプロジェクト及び制作物をまとめていますので、気になった方は是非お声がけくださいませ。(ポートフォリオを作って良かった話も書いてます:))

鳥取でやっていきたいこと

今後は鳥取を拠点にしながら、6年後に出来る「鳥取県立美術館(仮称)」に関われないかしらと目論んでます。

先日、『「美術館ができるまで」を伝えるためのフリーペーパー制作プロジェクト』の初回ミーティングイベントに参加してきたり、他にもいろいろ行動はしているので、上手く身を結んだり、未来に向けて楽しい方向性に転がれば良いなぁと。長い目で見て、自分に最適解の選択をし続けていきたいなというところです。

卒業して7年、IT/WEBの世界に身を置いていたので知識はありますが、イベント運営だったりワークショップだったり、今後はそっちの方向で動いていければと考えてます。エデュケーターやワークショップデザインというところにも興味がありますが、本調子とは言いきれないので、そっちはゆっくりボチボチ、でも動いていきたいなという。

現在ゆるりと就職活動だったり、個人でお手伝いもしたりしなかったりしながら、夏前には、何らかの形で再度社会復帰予定です。

鳥取内のいろんなプレイヤーとも繋がって、面白いことが出来たら良いなと思いますし、鳥取外にいるいろんなプレイヤーを招待して、鳥取の人達の刺激になるようにしていくことも出来たらなと。
先日、京都の飲み友達のRADの榊原さんがトークイベントで鳥取に来てくれた時に2人で鳥取市の飲み屋街回ったけど、京都に劣らない個性的な飲み屋が多くて2人で大いに楽しんでしまった。そういうのを京都の友人だけじゃなく、他の地域の友人とも出来て、かつ鳥取で出来た友人達も巻き込んでいけると良いなと思っています。

現在、無職なんですが、「こんな知り合いいる?」「こういう仕事あるけど、どう?」というご相談を受けていて、何件かお仕事繋げさせていただきました。人繋ぎ業なのか?そういったことも変わらずしていくと思います。

とまぁ、いろいろ書いてるけど、また全国を周りながらいろんな人に会って、美味しいご飯を食べながら楽しい時間を過ごせれたら、私の人生はハッピーなので、そういうことも定期的にやっていきたいですね。

現状の思考とこれから30代をスタートするにあたって

今の考えを綴っておきます。

個人的には、「町おこし」「地域貢献」という観点よりも、「こんなものがあるの?知らなかった!面白い!!」と次世代なり私達が好奇心を駆り立て持続出来る場なりツールを作るようなアウトプットが出来るような活動が出来たら、今後楽しく人生を送れそうだなと。後は、アーカイブすること。発信すること。やっただけにならないこと。
どこまで実行して完遂出来るかは分かりませんが、いろいろと実験しながら生きていきたいなぁと、今はそんな考えなんです。

なので最終的に「故郷に根をはる」という考えはそれほどありません。
今、「鳥取県立美術館」と定めているのは、今の自分の考えにちょうど良いから。地元に継続していく美術館が出来るのは喜ばしいことですし、掲げているラーニングセンター機能がどうなっていくのか興味があります。

あくまでも自分の好奇心が赴くまま持続させるままに。加えて、それが周りに還元出来たら良いなという甘々な考えです。しんどいこともたくさんあったし、これからもあるんだけれど、自分を偽ること無く、楽しく笑って生きてたいな、と思います。

今年は20代が終わり30代がスタートするんですが、挑戦して変容していけるような日々を送れるように楽しく生きたいな、ってとこです。

後、「頑張り過ぎず頑張る」ってことを人生のテーマにして生きます!笑
もう自分を追い込めるようなことはしません!!!

さいごに

改めまして、鳥取の皆さん、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
そして、鳥取外の皆さん、また今後ともどうぞよろしくお願いします&鳥取に来る際には連絡ください!砂丘に山に海に星も綺麗と自然には困らない地なので、自然楽しみたい方は是非。あと、言わずもがな、ご飯は美味しいです。全力でアテンドします。

鳥取に戻ってもフットワークは軽くあり続けたいのが私ですので、京都・東京の拠点は何個か確保していて、また定期的に訪れるつもりです。本当に各地の友人達に感謝しております。本当にありがとう。

イベントがあってもなくても2ヶ月に1度ぐらい関西でも東京でも行くと思います。後、京都でいろいろ挨拶したり、借りてるもの返したい!(各位スミマセン!!)

というわけでこんなクラタでした。
今回の投稿を機に全部写真も統一したけど、twitterやnoteでこの姿で発信するの恥ずかしい…///

写真についてですが、鳥取のフォトグラファーAyako Hiragiさん(umiaisa.me)にプロフィール・カバー写真を撮っていただきました。

「鳥取に戻ってきたわけだし、砂丘でカメラマンに写真を撮ってもらいたい」という夢を叶えてもらいました。私が描いたラフ過ぎるイメージボードを元に帽子投げの一瞬も柔らかい表情も収めてくれて、ステキに仕上げてくれて嬉しいです。砂丘かつ花粉と黄砂で目の開き方が半端だけど!これ以上開けなかったんだよね笑

鳥取砂丘は、小学校の遠足時に出来てしまったトラウマで嫌な思い出しかなかったけど、20代になってから行く度に良い思いしかしてない。

私は、「30歳までに死ぬんだろう」というネガティブ思考で10代を送ってきたのですが、月日を重ねる度に感じ方が変わってきて、気付きがある毎日が楽しい。「今が1番若いんだから日々楽しく挑戦していこう、30歳以降も楽しく生きてやる〜」って思いです。

新しい元号が「令和」になり平成元年生まれとしては寂しい気持ちもありつつ、新しく来る未来が楽しみ。「令和」が万葉集からの出典で心地良い響きだなと思っているので、そんな気持ちで動いてみたい。正直、桜より梅好きなので、由来の中に梅が含まれてるの凄く好きです。

「令和元年にやりたいこと」としては、「日々楽しく挑戦すること。毎日コツコツとやることやって前に進めていく。」という当たり前のことを当たり前に出来れば良いなと考えています。

うん。どんな状況であれ、前に進み続けることをやめたくないです。これからもそんな感じで生きたいと思います。また、どこかでお会いしましょう!

いただいたサポートで本を買ったり、新しい体験をするための積み重ねにしていこうと思います。