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「時」を重ねること

急に視界がクリアになる瞬間がある。
ぼんやりとモヤモヤしていた物事をスッと自分の言葉で言えるようになる時がある。誰に言われるわけでもなく、教えられるわけでもなく、自分自身で得た"気づき"というものは、どんな物事にも変え難いこと。

最近、そうなった瞬間があった。


私が大事にしているもの、作りたいものは、『「場所」よりも「時間」』だということ。
「時間」 > 「場所」。「場づくり」は、「時間」のためにどんな「場所」を作るかということ。その「時間」をいかに楽しく、面白く、嬉しく、悲しく、怒れるように過ごすための「場所」、コンテンツ、キャスト...という考えなんだろうか。


それに気づいた時、長年打ち続けていた点が線で繋がったような感覚になった。


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イベント運営や場づくり、コミュニティづくり、ワークショップなど。
そういった場に出入りしていると、「場所」「関係性」「学び」を作りたい人がたくさんいる。面白い人もたくさんいる。
ただ私の中で、自分がそちら側なのかは、腑に落ちることはなく。
そこにいる理由は、自分自身の『好奇心』によるもので、明確な目的があるわけでは無いとしていた。私の行動理由は、「過去の自分には無かったものを知りたい」という『好奇心』。いつだって、それは核にある。


それ故なのか、私のフットワークは軽い。
そう評されるし、自分だってそう思う。
我ながら羽が生えているかのようだ。跳ねていける。

まとまった「時間」が出来れば、現地の友人を巻き込み土地土地の美術館や景色を楽しむために、サッと動く。
2,3日前の連絡だとしても各地から友人達が来るのなら、喜んで無理矢理にでも「時間」を空けるのだ。

「地」を選ばない、その「時」の使い方というのは、誰からにとっては疎ましく羨ましいものだろう。
ふと自分を客観視して、そう思ってしまう時がある。
だが、それを抑えることは、自分自身を受け入れず傷付けていくことになる。それはもう止めたのだ。自分自身の羽を毟り取る行為ほど、己を否定し続ける自傷行為は無いだろう。


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GWで地元に帰った際、幼馴染を含めた高校時代の友人達と会っていた。
彼女達は皆、「君は出会った時から変わらない」と口を揃えて言う。
特に6歳の頃から私を知っている人間が言うのだ。筋金入り以外の何者でも無い。

彼女達と久しぶりに会ったことやその前後に各地の友人に会う機会もあり、その一連の流れを振り返り、思うことがあった。


我々は住む「場所」が違うし、高校時分のあの頃の「場所」に戻れるわけでもない。「また同じ学び舎に通おう」というのは、全く違う。「場所」を共有したいわけではない。我々が共有していたのは、その「時」だ。

常として、久しぶりに出会うとして、共有していた「時間」があれば、いつだって当時に戻れることも出来るし、そこからまた始められる。

何を感じて、発見して、プラスになって、マイナスになって、視点が増えて、視野狭窄になって。ねぇ、どんな「時間」だった?面白くても、つまらなくても、感じ方はそれぞれだからさ。どんな「時間」を共有していたんだろう。未来でのお話は、その「時」で1つずつ変わりゆく。

変わらない関係性、変わり続ける関係性、というのはそこにあるんだろう。


なーんて、なんて。
言語化出来ているのか出来ていないのか疑問視したくなる甘い甘いふんわりした思考が出来上がる。

私が「出会った頃から変わらない」と言われてるのは、きっとその「時」を楽しんでるからなんだろう。
だから久しぶりに会っても、その「時」に戻れて変わらない何かを再開することが出来るのだ。


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私は、毎日毎日「時」を重ねている。
有り難いことに生きている。自身で呼吸をしている。空気が美味しい。
臓器がなんとか動いてるじゃん。やったね。もうしばらくよろしく頼むよ。

「時」を重ねることで、楽しく、面白く、嬉しく、悲しく、怒ったり、知ったり、失ったり。これまでもそうだったし、これからもそうだ。
たくさんたくさんあるんだろう。

たまにしか出会わない人もいれば、これからもずっと出会っていく人もいるだろう。両親や弟、各地の友人達、職場の皆さん、学生時代や社会人生活を通して関わった様々な皆さん、たくさんたくさんいるわけで。

同じ「時」を共有出来るのなら、私はあの日と変わらない無邪気さで、またあなたに会うのでしょう。それはきっと、互いにとっての変わらない何か。
「過去」を懐かしみながら、我々の関係は、また「現在」から始めていけば良いんだと。

そう思っていたりする。


私は、自分の信念をこれと言うなれば、『「過去」と「現在(今)」と「未来」の3人の自分が楽しく酒盛りをしたい。』という事に他ならない。

「過去」の厨二染みた自分の言動を「現在」と「未来」の2人が全力で諭し、「未来」の雄弁を「過去」と「現在」の2人の私で目を輝かせて聴き、「過去」と「未来」の自分に板ばさみに合いながら、そのプレッシャーを振り払い、両者に手を差し伸べて「現在」を進む私というのが理想形だ。


「時」を重ねるのが億劫な時代もあれば、「時」に制限を設けていた時代もあった。早いこと「時」の流れから解放されたかったのだ。

ただ「現在」は、いつまで続くか分からない「未来」まで、「時」を重ねることを楽しく捉えられるようになっている。「現在」の私は、「未来」の私がやりきった顔をするまでの伏線を仕掛けていくしかないのだ。

3人の自分とまた出会ってくれるあなたのために、私はまだまだ「時」を重ねていきたいと思う。


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地元の海に行った。
海の青と白さ、太陽の黄色とオレンジがノスタルジーさを演出する。
山陰という地は、郷愁に思いを馳せるにはピッタリな場所。
「ふるさと」の作曲家である岡野貞一は、鳥取出身だ。

普段、海の見えない京都にいるので、海に足を浸し、写真を撮りまくる。

そんな私の様子を「昔から変わらない」と言いながら、幼馴染が記録として収める。その記録を見て、未来の我々はまた、それぞれの人生を語らうのだろう。

クレバーで毒舌で冷静沈着で心優しく美しいものが好きな彼女が幼馴染の1人で良かったと。出会う頻度は減ったけど、変わらない関係があり続けることを嬉しく思う。


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最後にELLEGARDEN復活、おめでとう...
もうね。中高時代に聴いてたドンピシャ世代なので、昨日から無理無理言いながら「時」を進めております。
エルレで一番思い入れのある曲は、Salamander。
デッサンする時に絶対聴いていて、イントロで鉛筆削って、サビでジャカジャカと黒鉛を白紙に描き殴ってた。

「時」を重ねると当時に戻れる瞬間がある。それで良いんだと思います。

いただいたサポートで本を買ったり、新しい体験をするための積み重ねにしていこうと思います。