2018年上-下の狭間
6/30 - 7/1。
2018年の上半期と下半期の狭間は京都のWORLDというクラブにいた。
知人が「恩師がVJをするから見に行きませんか」と呼んでくれた。そんなわけで数年ぶりに狭い箱の中で大音量の音楽と光に狂ったように酔い踊る人達を見ていた。
「あぁ〜やっぱり、TOWA TEIとヒロ杉山すごいや。エンライトメントすごいや。」
私はすっかり、何も知らずに見るもの全てが新鮮な大学1年生の頃に戻っていたのかもしれない。映像やアニメーションが好きな私は、今もそういった分野のものがとても好きだ。
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1月
入院の準備でいろんな物事を慌ただしく片付けていた。仕事だったり身の廻りの手続きだったり。願掛けで神社をたくさん巡った。雪が舞う鳥取で過ごした年末年始は久しぶりのことだった。
面白いぐらい気が滅入っていて、新年会と称して飲みに付き合ってくれる人達から「大丈夫だって。また元気で会えるのを楽しみにしている。」と声をかけられながら控えめに飲んでいた。
月末に京都から鳥取に戻ると、両親2人ともインフルエンザにかかっているorかかっていた状態で、かつて祖父母が住んでいた母屋へ隔離された。
「入院前日に笑えるなぁ」って思いながら眠りにつく。
2月
手術から始まった2月だった。0時から絶食。10時から絶飲。13時には手術。
「"絶食カード"です」と言われた渡されたカードのインパクトは忘れない。
手術は無事に終わる。
息が出来なくなったり、肩が痛くなったり、術後の負担が身体を襲う。
鳥取は雪国だ。病室の窓際から雪が舞い踊る。
京都から何冊か本を持ってきたけど、あまり読み進めることが出来ず。「何で時間を潰そうか」と考え、父に1つお願い事をする。インフルエンザ後の重たい身体を引き摺りながら現れた彼から渡されたものは、B4サイズのマルマンスケッチブック。
「そうそう、これこれ。ありがとね。」と受け取って直ぐさま、書類を書くために持ってきていたボールペンを走らせる。幾分書いていた方が気が紛れる。生まれてこの方染み付いてしまった書き癖は一生抜けないんだろう。
退院してから1週間は自宅で安静にしていた。が、遺憾せん家でじっとしているのが無理なタイプなのだ。「動けるかしら」と思い立ち雪が積もる鳥取砂丘へ出向く。この眼で見たかった雪景色を収めた時、「あぁ。生きてて良かった。」と素直に思った。
このまま帰るのもあれだと思い、鳥取で行ってみたかった今は無き"ホンバコ"を訪れた。面白い場には面白い人達が集まってきてコミュニティは作られていくんだなぁと思う。京都でも実感していたけれど、地元でもみるとそうなんだなと確信に変わるのだ。
家に戻りそれから3日ぐらい寝込んでいた。冬季オリンピックも相まって完全に昼夜逆転なのもあったが、何より体力が追いつかない。手術による体力の低下を侮ってはいけない。
冬季オリンピックの終わりと共に京都へ戻る。実家でこんなにゆっくりするのは、もう2度と無いようにしたい。そんな思いが帰りの電車の中で駆け巡る。
3月
復帰したら年度末だった。分かってはいたけれど、パタパタと巻き込まれ波に飲まれ、手術したのは何時のことだったかと忘れそうになるぐらい。病後の書類も各位にリマインドされないと抜け落ちそうになるほどだ。
そんな合間を縫って東京へ向かう。「谷川俊太郎展」を見るためだ。病気のことが片付いたら絶対に行きたかったのだ。
「そうだそうだ」という言葉達と思いがけない心地良い映像がそこにあった。
そして東京の友人宅で夜な夜なゲームをする。純粋に頼む私達は、放課後のよう学生のようだった。
3月の最終日はPetrolzのライブを見た。見たかった3人の奏でる音楽を浴びた時、「"音を楽しむ"とはなんと素晴らしいことなんだろう」と全身でひしひしと感じて言葉にならない何かがそこにあった。
4月
新年度をゆるく始める。
会いたい人達に会っていた。「ようやく会えましたね」から「久しぶり」、「ご無沙汰」「初めまして」さまざま。療養期間と年度末が相まって、時の流れが狂ってしまったようだ。全てが懐かしく思える。全てが新鮮に思える。そこに私がいたのかは定かではない。
父の作品撮影に立ち会っていた。この話をすると「お父さんのこと好きなんだね。」とよく言われる。世間一般的に言うと、ファザコンだろう。そう評価されたとて、私としては、これぐらいでしか彼の力になってあげられないと思っている。せっかく彼の娘に生まれたのだ。与えられるばかりではなく返したい。私と父は親子であり、意志を持った1人1人の人間だ。コピーじゃない。だから私は出来る範囲で彼に返せるものを返す。
現在も過去も。それだけなのだ。私と父の関係性なんて。
5月
3月からその傾向は自覚していたけれど、今年はサシ飲みをする機会が多くなりそうだ。大人数の飲み会は設定せず、2人で顔と顔を付き合わせて深掘りしていく機会が増えた増えた。多くて6人。それぐらいがきっと良い。
GW期間は、友人達の結婚パーティーに出席するため、京都と鳥取へ。そして初めましての富山へ。祝い幸せな気持ちと自然と人工が作った造形美。
木々の緑は美しく、海は大らかで雄大で深く青い。
その中で気付いたのは、「時」を重ねること、その楽しさのように思う。
行きたかったパスピエのライブを見て、私より少し年上の彼が等身大の姿でティーンズを中心とした観客の心掴んでいくのが手に取るように分かった。大胡田さんのあの声はいつまで聞けるんだろうか。それでも限りある現在を聴きたい。
6月
去年から継続していた会社のイベントの第1弾を開催した。
告知が遅れて集客面でパタパタしてしまったが、結果良いイベントになって一先ずは安心だ。次回に向けていろいろ練ろう。ごはんは美味しい。
そんな中、関西が揺れる。
地震が起こった瞬間は、トイレで二日酔いと戦っていて「あのメンバー楽し過ぎるんだけど、ワインはやっぱり頭痛くなるなぁ...」と項垂れていた最中のことだ。
生死が脳をよぎる。
今も地震は続いてて、この日本に住んでる限り何が起きるか分からない。
実は2月の手術は完治してなくて、まだまだ継続してる。定期的に再検査しなきゃいけない。そう、いつ終わるかなんて、本当はすぐそこかもしれない。動ける時に動けるようなフットワークの軽さは、ずっと絶やさずに持ち続けたい。結局、私なんてそうでしかないし、そうありたいんだ。
6月は、自分が運営側で関わった3つのイベントに携わった。
中でも京都府立図書館で行われたCALMは、久しぶりの学園祭みたいなノリで、打ち上げの後のお酒も会話した内容も全部が濃くて最高だった。
鳥取から2度目ましての年下ガールが遊びに来ていて、イベントが終わる頃には長年の友人のような立ち振る舞い。そんな姿を見た、とあるマスターにこう言われる。
「大人になってから好きなものが一緒だったり話が合って仲良くなる友達って良いですよね。」
いつだって仲良くなるやつとはすぐに仲良くなる。なんとなく知り合った往年の知人とは急に距離が近くなることもある。タイミングはそれぞれだけど、人は仲良くなるためにいろんなものを知って、会話のキャッチボールをしていくものなんじゃないかと、私はそう思っている。
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ぼーっと振り返っていたら、もう7月は2日だった。
過去ログを見返すと私はこんなことを思っていたらしい。
本当にそんな感じになっている。言霊はスゴいんだ。声に出す。記していく。それだけで力がある。
上半期で変わったものは、死生観だったり、考えだったり、立ち振る舞いだったり。私なんてちっぽけな存在は、近日中に消えゆく存在かもしれない。そう思ったら、今までやれてなかったことや出来なかったことを1つずつ出来るようにしていく、乗り越えていく、ゴールテープを何度もなんども切る。その方が私の心はどんどん強くなるし満たされていく。ちっちゃいことだし、高望みはなく夢はないように思われるけれど、私はそうやってどんどん速く飛んで跳ねていけるように、これからもやっていくのが良いんだと、今はそう思う。
とりあえず今夜は早く寝て、早起きで日本代表戦を観るのが吉でしょうよ。ボール1つで世界中が虜になるんだからサッカーというものは、スポーツは楽しい。私は祖父が教えてくれたスポーツを観察するという行為がとても好き。
さぁ、平成最後の夏を始めて、終わりに向かって駆けて抜けていこう。
充実した未来の自分に会えるのを楽しみにしている。
歩いて来た道が自分の人生だというならば、私はたくさんの廻り道をしてここに立っているし、今後もたくさん迷ってどこかの道を進むのだろうけれど、自分が選んだ道をしっかりと歩いていきたいと思う。誰のせいにも自分のせいにもしたくない。「自分が犠牲になって良い」なんて思想はもう2度としない。私はどこにでも駆けれるようにしなやかで軽く強い跳ねれる力を磨けば良いだけだ。
さぁ、平成を終えていこう。
いただいたサポートで本を買ったり、新しい体験をするための積み重ねにしていこうと思います。