弦楽六重奏曲《浄められた夜》
2019年9月15日の日曜日のことでした。倉敷公民館の音楽図書室に立ち寄ったところ、笹岡和彦先生にお目にかかりました。先生は、中国短期大学および中国学園大学で長く音楽の教官をされていて、定年退職後に倉敷市より請われて倉敷音楽図書室に指導員としてお勤めでした。まさに音楽図書室に相応しい方です。
音楽図書室の基礎になっているのは、大原總一郎とクラレ社長であった仙石 襄氏のレコードコレクションです。レコード・コレクターは数多くいますが、コレクションの質と系統性は、お二人のコレクションが群を抜いているそうです。レコードは、ただ保管しておけよいのではなくて、維持・保存はカビとの戦いで、定期的な洗浄が欠かせないそうです。倉敷市が、高層ビルを建てるのにお金を費やすのではなくて、黙々と文化遺産を護り維持するのにお金を費やしているのは、市民として誇りに思えるところです。
笹岡先生は、大原總一郎のSPレコード・コレクションからおすすめの一曲を選んで下さいました。それは、1899年に完成したシェーンベルグの弦楽六重奏曲《浄められた夜(浄夜)》でした。シェーンベルグが活躍した19世紀末のウイーンは、フランツ・ヨーゼフ1世の治世となり、多民族共生、多文化共存の方針が打ち出され、圧倒的な文化的豊かさがあった時代でした。音楽の分野では、かつてウィーンで活躍したモーツァルトが18世紀末(1791年)に亡くなり、ベートーベンが19世紀初め(1827年)に亡くなった後の時代になります。
折しも今年は、東京の国立新美術館と大阪の国立国際美術館のリレーで世紀末ウィーン美術展が開催されており、今まさに時宜にかなう選曲でした。シェーンベルグ(1874〜1951)は、大原總一郎(1909〜1968)と生きた時代が重なります。SPレコードを通じて、同時代を生きた二人とまったく同じ体験ができるのです。
SPレコードは、レコード板の振動を記録した溝を鋼鉄の針が引っ掻いて、直接振動板を振動させて音を出します。そこには電気信号の介在はありません。笹岡先生が選んで下さった曲は、弦楽器だけの構成(ヴァイオリン2、ヴィオラ2、チェロ2)です。弦楽器は弦を弓で引っ掻いて演奏するので、ピアノなどの弦を叩く楽器と比べて、SPレコードの原理とより近いので、忠実な録音・再生ができたのではないか、と想像します。
《浄められた夜》は、デーメルの詩集「女と世界」(1896)の中の詩にもとづいた音楽です。詩の内容は、救われることが不可能だと思われた罪が救われる物語です。「月は高いかしの木の上を走っており、空の明るさを曇らす雲一つない夜」の出来事を奏でています(音楽の友社・編:新ウィーン楽派(作曲家別名曲解説ライブラリー16). 音楽の友社, 1996. P101ー104)。
演奏中の蓄音機(ビクトーラ・8ー60, 1926-27アメリカ製)
(演奏中はホーンのある正面の扉を開けている。左奥の棚は大原總一郎のSPレコード・コレクション)
演奏中の《浄められた夜》のSPレコード
(弦楽六重奏曲 浄められた夜 ユージン・オマンディ/ ミネアポリス管弦楽団, 1934年)
笹岡先生は比較のためにLPレコードの演奏も聴かせて下さいました。また、自宅でCD版を購入して聴いてみました。SPレコードの音は、直接、体に入ってくる感触がありました。引っ掻くのが、皮膚感覚に近いからでしょうか。演奏には、罪を浄化する強い圧縮力がイメージされます。一方、いったんアンプを通して電気信号が介在するLPレコードやCDの演奏は、耳で聴く感じで、圧力のイメージが乏しい感じです。
喩えるなら、SPレコードの演奏は、濾過して浄化する圧力のイメージであり、LPレコードやCDは、自然に任せて沈殿させて浄化するイメージです。大原總一郎の形見は、今も、世紀末ウィーンの熱情をそのまま私たちに伝えてくれます。
濾過されて浄められる圧力のイメージ