倉敷中央病院名誉院長、鶴海寛治先生のこと
忘れ得ない光景がある。今から23年前、平成8年頃のことだったと思う。倉敷中央病院リハビリテーションセンターに勤務していたときのことである。ひとりの老医師がリハビリテーションセンターのスタッフ室に濱原凉子技師長を訪ねてこられた。濱原技師長との短い会話のあと、同室に居合わせた私が、新しく着任したリハ医であることを紹介され、その老医師から確かに認識されたのを覚えている。それが、鶴海寛治名誉院長であったことは、濱原技師長から直後に知らされた。その時すでに倉敷中央病院を退職されていて、小児施設のくすのき園や友人の病院を手伝っておられるのだということであった。濱原技師長からは、「本当に、ずっと気にかけて下さっているんですよ」と、聞いた。
最近、急に気になって、倉敷中央病院75周年記念誌を紐解いてみると、鶴海名誉院長が倉敷中央病院の開院時からの歩みを執筆された文章があった。
鶴海寛治(つるみ かんじ):倉敷中央病院75年の歩み
(田中陸男・他編:倉敷中央病院75周年記念誌. 平成11年3月. p32-40)
病院は大正12年に設立され、戦中・戦後の混乱期を乗り越えたものの、昭和30年代に沈滞期を迎えたていたという。記録によると、昭和36年には総ベッド数470床に対して入院患者は273名、医師数26名の状態であった。今の地域連携室・室長、十河浩史氏に聞いたところでは、倉紡の社員や家族にさえも敬遠されていたという。そんな沈滞期であった昭和38年に、新設された整形外科の医長として鶴海先生が赴任された。そして、倉敷中央病院が近代的な設備を備えた医療機関として飛躍する契機となった、現・第一棟を中心とした施設群の建設に取り組んだときの責任者となったのが、鶴海先生であった。
昭和48年に第1棟の建設が開始されるも、オイルショックに遭遇し、建築資材の不足と高騰に襲われ、大幅な工期の遅れと、当初予算の3倍の費用を費やして、ようやく命運をかけた事業を完成にこぎ着けたという。第1棟とは、今でも倉敷中央病院のランドマークになっている建物で、ヨーロッパの山小屋をイメージした、屋上が赤瓦屋根で外壁が白壁の10階建ての建物である。現在では東側にある高層階の新棟の方が目立っているが、倉敷中央病院のイメージと言えば、今でもやはりこの第1棟である。陣頭指揮に当たった鶴海先生は、この時期をどのようにして耐え抜かれたのだろうか。
それから無性に鶴海先生のお人柄が知りたくなって、既に退職していた濱原さんを訪ねた。話は遡って、昭和39年に鶴海先生の指導のもと、整形外科病棟にハバードタンクが設置され、看護師が操作して水治療が開始された。まだPT、OTの国家資格制度はなかったが、昭和42年に体育学部出身の二人の女性が採用されて、ハバードタンクを使った「機能訓練」が開始されたのが、本来的なリハビリテーションの出発点と言えた。その一人が濱原さんであったわけである。やがて、国立療養所東京病院付属リハビリテーション学院と労災福祉事業団九州リハビリテーション大学校でPT、OTの養成が開始され、無資格の実務者にも、移行処置で国家資格取得の道が開かれた。
しかし、倉敷中央病院で採用された二人は、わずか数ヶ月間の実務期間が足りず、道を閉ざされてしまう。鶴海先生は、そのことに心を痛め、まだ国家資格制度の整備が遅れていたST(言語聴覚士)の資格を取得したらどうかと提案され、ST関連の可能な限りの研修会・講習会への参加をサポートされたという。その甲斐あって、平成9年に実施された移行処置に伴って、濱原さんは第1回の国家試験に合格し、晴れてSTの国家資格を取得できたのであった。鶴海先生は、自分がかかわった一人の職員のことを気にかけ、30年余りに渡ってサポートされたわけである。私がお見かけしたときは、まだSTの資格制度ができる直前のことで、退職後もわざわざ職場を訪れて、サポートを続けられていたのであった。もう一人の方も、PT助手として、定年まで倉敷中央病院を勤めきり、さらにその後、再雇用もされたと聞いた。
濱原さんは、鶴海先生との長いお付き合いの中で、一度も叱られた記憶がないという。いつも穏やかで温厚であって、それでも組織がしっかり締まっていたとのことである。どうしてかと言われても、説明ができないし、そうだとしか言いようがないということであった。そのような厳かな雰囲気があったのだと。院長時代は、部下が相談に来ると、「君は、どうしたいんだ?」と、部下に考えさせ、実行させることで、部下の能力を引き出して、多くの部下を育てあげた人であったという。
大病院の院長なのに、バス通勤をされていたそうである。岡山市の野田から、旧国道2号線を運行されていた当時の国鉄バスで通勤されていて、濱原さんが車で通勤途中に、鶴海先生がバス停で並ばれているのをお見かけして、そのお姿におどろいて、ピックアップしたこともあったとのことである。
趣味は、旧山陽道を少しずつ歩いて踏破することで、休日は一人で総社や矢掛方面を歩かれていたといいます。プライベートは孤独に過ごされていたご様子である。西大寺(現・岡山市東区西大寺)のご出身だとか。ご存命なら100歳を過ぎておられるはずであるが、平成26年5月22日、満96歳で永眠されたことを知った。
鶴海先生は3年半のシベリア抑留の経験がお有りであった。濱原さんから貴重な著書、「果羅の旅(シベリア抑留記)」を借り受け、その夜読んだ。果羅(から)とは、重罪のものが流される国である。題名の「果羅の旅」は、一行法師が無実の罪により果羅へ流されるのを、天童が憐れんで、九曜の神の象を遣わして護ったという故事からとってあるという。
著書の原文は、昭和23年7月の帰国後間もない、昭和23年9月に書かれたもので、30年余りの時を経て、還暦の記念として昭和54年に印刷され、関係者に贈られたものである。鶴海先生は、昭和18年に京都帝国大学を卒業後、海軍の軍医として、千島列島最北端の占守(しゅむしゅ)島に赴任された。占守島は、終戦後の昭和20年8月18日にソ連軍の侵攻を受けて、激しい戦闘が行われた。日本軍は果敢に戦い優勢であったが、停戦となり、島の守備隊は武装解除され、そのままシベリア抑留に至ったのである。
氷点下45度にもなるシベリアの冬のこと、春から夏にかけての短い季節の美しさ、日本兵が働ける限り酷使され、食料は足りず、全員が飢餓に陥っていたこと、劣悪な衛生環境と伝染病の蔓延、頻発する炭鉱事故、続出する死者、規律を失い荒廃して行く組織、ソ連側の監視・密告・恐怖政治・思想教育による圧迫、それらのことが舐めるように描写されている。その中で、鶴海先生は自分が医師であったので、栄養失調に陥っても周りが食料を融通してくれたり、ソ連軍に抗議しても、軍医を営倉(軍隊の拘禁施設)に拘禁すると病人や怪我人の処置に困るので、護られて生き残れたと、振り返えられている。そのおかげで、医務室は最後まで「日本」を守り通したと。
その文体から、先生が、抑留中にずっと覚醒した意識を持ち続けておられたことがわかる。あとがきでは、日本に帰っても、あの惨めな生活をまた思い出すことは耐えがたいであろうと思われたので、話はするまいと思っていたが、人の情けに身が熱くなる思いがすること、人間とはいえない過酷な仕打ちに、シベリアに果てて行った同胞達の記憶がさめない間にと思って、筆をとったと記されている。
突然に思い返したことから、今は亡き鶴海先生の著書に辿り着き、70年の時を経て、先生の情理を尽くした語りに貫かれる経験ができた。濱原さんの憧憬に寄り添い、鶴海先生は私の中の「もう一人の他者」となった。私は、困難に向き合うとき、問いかける。「鶴海先生、あなたなら、こんなときどうしますか」と・・。
(平成31年2月17日)
追伸
鶴海寛治・著:果羅の旅(昭和54年2月)は、下のPDFファイルをダウンロードして全文をお読みいただけます。貴重な記録の公開をご許可いただきました、ご遺族に感謝いたします。
「果羅の旅」綴じ込みの地図より