一流のパフォーマンスに見られたATNR(非対称性緊張性頸反射)
ATNR(非対称性緊張性頸反射)は脳幹レベルの原始反射で、頭部の向いた側の伸筋トーヌスが亢進し、反対側の屈筋のトーヌスの亢進を生じるものです。新生児に認められ、生後4カ月過ぎると消失するとされています。しかし、人間が極限まで能力を発揮するときに復活して、パフォーマンスを助ける様です。
2019年11月15日、岡山済生会80周年の記念イベントで、香川県高松市出身の世界的ヴァイオリニスト、川井郁子さんの生演奏を聴く機会がありました。使用楽器は1715年製作のストラディバリウスです。立ったままで演奏する姿の背景に、ATNR(非対称性緊張性頸反射)が見出されました。
川井郁子さんは演奏中、やや左を向き、ヴァイオリンの弦を押さえる位置まで左上肢を伸展させています。体幹と左下肢も伸展させています。頭部を向けた側の左上下肢と体幹は、全体の傾向としてATNRの伸展側のパターンを示し、それによって、姿勢を安定化させるためのパワーを得ています。
一方、反対側の右上肢は屈曲して自由度を得て、弓を自在に操り、繊細かつダイナミックな演奏が可能になっています。右下肢も自由度を得ることで、リズムをとるのに参加します。
ヴァイオリンは小さな楽器です。しかし主旋律を担当するために、演奏者の能力を極限まで引き出すようにデザインされていたのでした。ぜひ、川井郁子さんのみならず一流のヴァイオリニストの演奏をネット上の動画で確認してみて下さい。とりわけ、パワーの面で不利な女性奏者の演奏場面が判りやすいです。
翌日、倉敷美観地区にある備前焼ギャラリー・一陽窯を訪れると、備前焼作家・石田和也さんの実演場面に遭遇しました。画像は店内で、ろくろ、を回して土を造形する石田さんです。
画像から判るように、石田さんは筋肉質な体型です。これはウエイト・トレーニングをしてつくったものではなくて、備前焼の土をこね、造形をするなかで培われた身体だそうです。私たちは、備前焼の造形作業を見て、軽々とこなしているように見えるので、練りハミガキのような軟らかい土を造形していると思い込んでしまいます。しかし、実際はとても硬いものだそうです。しかも、造形する手が少しでもブレると、製作中の器はたちまちぐしゃぐしゃに変形してしまいます。見た目と違ってパワーと繊細さの両方が必要な作業なのです。
そんな高度な作業を行う石田さんの姿勢のなかにも、ATNRの存在が見出されます。石田さんは“床下収納庫”のようになった掘り下げられた場所の縁に座って作業をしています。画像では判りにくいのですが、右下肢は“床下収納庫”の中に入れて伸展し、体幹を安定させています。頭は右に向け、右上肢はやや伸ばした位置で、回転する、ろくろ、の土に抗して、肢位を強固に固定しています。
一方、反対側の左下肢は座布団の上で屈曲して、体幹の微妙なバランスを調整しています。左上肢は何も持ってはいませんが、右上肢の位置や力加減を調整しています。つまり安定とパワーが必要な右上下肢は、ATNRの伸展側のパターンを使い、調節機能が必要な左上下肢は、屈曲パターンを用いています。
川井郁子さんも石田和也さんも、一流のパフォーマンスを遂行する人は、普段は抑制されている原始反射をも呼び覚まし、身体の能力を極限まで引き出していたのでした(さらに、お二人とも感覚が優れているのは疑う余地がありません)。この秋は連日、素晴らしい舞台と遭遇する体験ができました。シンクロニシティの神秘です。
追伸
石田和也さんは、1986年、備前市伊部の生まれです。家業である備前焼の道に進み、備前焼きの伝統とイギリスを中心に海外で培った表現力を融合させた作品を創る陶芸家です。上の画像の造形場面では、備前焼の土の表面に白い泥を塗って、「化粧」を施しています。化粧した土は、ろくろ、の遠心力を利用して、ねじれを引き出し、らせん模様の優美な作品に仕上げて行きます。
下の画像は、石田さんが、更なる新しい表現への取り組みとして、備前焼に益子焼の技法を取り入れて製作した皿です。備前焼は釉薬を使わない焼き物ですが、備前焼の器の表面に益子焼の釉薬を塗り、櫛状の道具で引っ掻いて模様をつけたものです。模様の線には迷いがなく、引き締まっていて、模様を止めたり、方向を変える部分のメリハリが際立っているところが、備前焼の力強さの血脈に通じています。
それは石田さんの身体性が顕れたものです。喩えるならば、石田さんの身体は、スポーツカーのポルシェです。ポルシェは1350kgの軽い車体に400馬力のエンジンを積んでいます。そんなパワーのある車を制御するには強力なブレーキが必要です。ポルシェを初めて所有した人は、ディーラーから、後ろからよくぶつけられるので気をつけろ、と言われるそうです。ポルシェのブレーキなら止まれる状況でも、後続の車は止まれないからです。石田さんの身体は、強力なパワーとブレーキを兼ね備え、硬い土も、液状の釉薬も、自在に操っているのでした。
追記
画像は、岡山出身の人形作家・木原幸子さんによる創作人形「蒼い月」です。岡山天満屋で開催された個展に出品されていました。
少女の姿勢は、あぐらをかいてリラックスしている状態から、はっ、と何かに気づき、ATNRを利用して立ち上がろうとしている、ATNRが発動する直前の状態です。すなわち、頭頸部をやや左を向けて、これから、重心を右坐骨から左坐骨に移し、左上肢を床に着けて伸展させ、次いで、左下肢を伸展し、立ち上がろうと態勢を変化させる「直前」の状態です。
会場にいた木原さんご本人に訊いてみましたら、ATNRのことはご存じないとのことでしたので、作家の人への深い観察眼が、「魂の入った」創作人形達を生み出しているのだと解りました。
(木原さんは2004年にワーナーブラザーズ社から依頼されて、ハリーポッター公式人形を製作されています。)
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