ナツコさん3〜ナツコさんの青春探訪2〜
ナツコさんが生まれ育った岡山市庭瀬は、筆者が20代のころ住んだ町です。昔の自分を振り返るのを兼ねて、ナツコさんの故郷を訪ねてみました。
最寄りの駅は、JR山陽本線の庭瀬駅です。
駅舎は建て替えられていますが、筆者が岡山にやって来たときは、まだ初代の木造駅舎でした。
この駅は,内閣総理大臣であった犬養毅が、生家があった庭瀬から首都・東京に往くときに利用しました。初代駅舎の柱と鬼瓦が保存されていて、上りホームに展示してあり、犬養首相が、庭瀬駅の柱を観ながら国の将来について思索したであろうことが解説されています。
犬養毅(木堂)は、昭和7年(1932年)5月15日に起こった、五・一五事件で、海軍青年将校の凶弾に倒れて亡くなりました。
地元の人達は今でも犬養毅(木堂)のことを慕い、駅のゲートに御名を掲げています。
駅から幹線道路である旧・国道2号線の方へ向かうと、交差点にあった中国銀行庭瀬支店は、石造りの外観のままで、昔と変わらない佇まいです。
近くには、ナツコさんの母校の吉備小学校があります。
ナツコさんも筆者もよく利用していた中鉄ショッピングセンターは、なくなっていました。建物はそのままで、別の看板が掲げられていました。
そのまま東へ向かうと、デニムジーンズのアパレル大手だったボブソンの本社が残っていました。社屋は建て替えられています。
近くまで来たので、筆者がかつて暮らした団地まで行ってみました。家々の庭木が成長しいていますが、昔とほとんど変わらない印象です。借りていた家も残っていて、小さい子供がいる家族が入居している様子でした。
町の西の外れには足守川が流れています。川の上流には、羽柴秀吉の水攻めで有名な備中高松城の史跡があります。
昔暮らした場所には、自分の体の一部を置き去りにしてきたような、哀惜に満ちた身体感覚を覚えます。
ナツコさんは、地元の中学校を卒業後、文武両道で知られる岡山県立S社南高校に進学されました。
高校卒業後、微生物・発酵に関わる専門教育を修了され、岡山県内の大手食品メーカーに就職されます。フリーズ・ドライ製品の研究開発に従事され、商品化のために一度に2万食を作るレシピを考案されていたとのことです。
今は、その当時実現できなかった、豆腐の味噌汁や親子丼も製品化されているので、技術の進歩に驚きなのだそうです。
ナツコさんは、優秀な社員としてキャリアを積まれていたのですが、かねてから雑貨店をやりたかったので退職されます。
そして雑貨店経営について教えてくれる大阪のB・キャリアスクールに岡山から毎週通われました。そこで、経営のノウハウや仕入れルートについて学び、また、感性を養うために大阪・中崎町の雑貨店巡りをされたそうです。
今はもうなくなっているのですが、学校があったのは、御堂筋の心斎橋あたりだったと聞いたので、所用で大阪に行った折りに地下鉄御堂筋線の心斎橋駅で降りてみました。
若き日のナツコさんは、心斎橋筋のアーケードをおもむろに歩いたのでしょうか。アーケードを南に抜けると、大阪の原風景である道頓堀界隈の風景が拡がっています。
校舎が入居していたのは、御堂筋の西側にあったビルだったとのことですので、このあたりでしょうか。
ここは、アップルコンピューターや高級ブランドが軒を連ねる、品位があって華やかな場所です。
そうして、ナツコさんの人生行路は、ナツコさん2で紹介した時空へとつながります。
ちゃんと準備をして、しなやかにハンドルを切って生きる人、
そ・れ・が、ナツコさん。
シリーズ前作は、こちら。
追伸
ナツコさんと同じフロアでお店をされている方が、歴史上の人物、犬養毅の本家の子孫の方だったので、びっくりしました。