
「蔵前今昔」
このところ街歩きにおすすめの街として注目されることが増えてきた蔵前ですが、昔の蔵前はどんな様子だったのでしょう?
今回本誌の特別企画として、戦後の蔵前を知るお二方にご登場願い、おもちゃ屋さんが増えていった経緯や蔵前国技館があった時代の子どもたちの様子など多彩に語っていただきました。

浅草寿地区町会連合会会長・
ホビー・トイ総合問屋 有限会社宮森健之商店会長
宮森啓之さん
花火・玩具問屋 株式会社山縣商店会長
山縣常浩さん
蔵前商店街会長・角打ちカフェフタバ 代表取締役社長
関明泰さん
自由丁・封灯店長
会司会:山本夕紀さん
都電が走り、おもちゃ屋さんが
200軒もあった
山本 今回は「昔の蔵前」についてお話を伺います。実は蔵前商店街会員の中でも「昔の蔵前が知りたい」という声は多く、この機会を楽しみにしていました。本日はどうぞよろしくお願いします。
宮森 連合町会長をやっている宮森です。宮森健之商店の4代目なんですが、蔵前というのは、そもそも浅草寺の門前町なんです。それは浅草橋まで続いていて、最初にあったのは、人形屋さん、吉德とかね、それからだんだんおもちゃ屋さんが出てきた。僕のおじいさんの代ですね。
山本 宮森さんのおじいちゃんの代というと、何年くらいでしょうか?
山縣 戦後だね。
宮森 そこら中、焼野原になっちゃって。そのあと、子ども心に上野駅の汽車の音が聞こえたのを覚えてます。
山本 汽車ですか。その頃からこの辺りは交通の便が良かったのですか?
宮森 そうだね。江戸通りには銀座4丁目から都電が走っていて、22番線。それが南千住まで行っていた。新堀通りを走り三ノ輪の車庫まで走ってた。それが31番線。そのころからおもちゃ屋さんってのはぼちぼち出てきてるわけですよ。うちは明治から、鳥越でやってましてね。それから蔵前に移った。
山本 ほうほう。
宮森 昭和35、6年ごろからおもちゃ屋さんが増えてきて、浅草橋から厩橋まで200軒もおもちゃ屋さんがあった。
山本 200軒ですか?!1軒おもちゃ屋さんが出来ると、次々と増えるものなのですか?

山縣 おもちゃ屋さんって昔はいろんな種類があったんですよ。ぬいぐるみ屋さんがあり、木製のおもちゃ屋さんがあり、プラモデル屋さんも。逆に総合問屋ってのはないんだよね。
山本 なるほど。
山縣 宮森さんのところはフィギュアだとか、モデルガンだとかで有名だしね。うちは花火とか、ブリキのおもちゃとかを扱ってる。他にも、縁日屋さんって言って、縁日で売ってるおもちゃを扱っている店もあった。だから、地方の小売り屋さんが蔵前来て、順番に回っていけば商品全部揃っちゃうって具合だったんだよ。
山本 確かに、そういうことであれば、種類の違うおもちゃ屋さんがあればあるだけ、地方の小売屋さんはみんな蔵前に仕入れに来たくなるわけですね。
山縣 そうそう。蔵前に来なければおもちゃを買えなかったと言ってもいいくらいかもね。
山本 はぁ〜。オンラインで色々なものが買える今とはかなり違いますね。
山縣 そりゃあそうですよ(笑)。ネットなんてない時代ですからね。
山本 だからこそ同じ業種でもライバルにならず、街の活気が保たれていたんですね。だいぶ当時の商いのイメージが湧いてきました。
では、次はそんな蔵前の街で育った皆さんの少年時代についても教えていただきたいです。
蔵前国技館や隅田川で遊んだ
子ども時代。

宮森 僕らが10歳そこいらのころは、蔵前国技館があって、焼き鳥の臭いがすごかったんですよ。
山本 なぜ焼き鳥の臭いが?
宮森 相撲は桟敷で見るでしょ。そうすると桟敷には必ず焼き鳥がついていたんだけど、国技館の中に茶屋があって、そこで朝から焼き鳥を焼いていて、その匂いがする。当時は子どもたち10人くらいを本番の前に国技館の中に入れてくれて、見物させてくれたんです。で、本番が近づいたら、「僕たち、もうそろそろ本番だから、帰んな。」とか言われて。
山本 へぇ。本番前に中に入れてもらえるなんて、ワクワクですね。
宮森 そうだね。あとは近所の公園に紙芝居が来たり、隅田川で魚を釣ったり、船着き場で遊んだり。それにいろんな駄菓子屋さんがあって、1円の飴とかを徒党を組んで買いに行ったりしたね。

山縣 そうそう、そうやって、みんな工夫してさ、特別に何かどっかに遊びに行くとかじゃなくて、町の中でウロウロしてた。(宮森さんの方を向いて)こういう親分が連れて行くわけね。(笑)
山本 なんだかその姿は想像できます。(笑) 街の中を子供たちが連れ立って歩いてる光景、平和で素敵ですね。では、お買い物はどうされていたのでしょう?
宮森 今もあるけど、鳥越に「おかず横丁」があった。たいていはそこで賄える。それに当時は、魚屋さんだとか八百屋さんなんかが御用聞きに来てくれたんです。「今日いい魚あるよ」とか言って。どこの店にも裏口があったから、そこでお手伝いさんから注文を聞くわけ。
山本 へぇ、昔の映画みたいですね!
山縣 当時は住み込みの人がいっぱいいたからね。集団疎開で地方から蔵前に結構来てたから、うちなんかも番頭さんが寝泊まりしてたわけですよ。で、お手伝いさんが住み込みの人たちの食事を朝・昼・晩作って食べさせてくれてたんだよ。
山本 生活の仕方が今とは全然違いますね。街並みも大きく違いそうですがいかがですか?
宮森 全然違うね。今はビルが増えたけど昔は2階建てとか3階建ての小さな建物ばっかりだった。
その当時でビルと言えたのは安藤商会さんとタイガービルぐらいかな
山縣 そうそう、江戸通りのお店は夏になるとそれぞれの店の前に自腹でよしずを張って日よけにしていた。それと必ずお店の前にはコンクリートの水槽があってね、水をためておくわけ。それで打ち水なんかして涼をとってた。クーラーなんてなかったからね。
山本 へぇ!街の人にとってはありがたいですね。
宮森:自分の店の前の道を掃除するような感覚で、当たり前のようにやってたね。
山本 そっか。それぞれ店主さんがいるお店だから、ちゃんと店の前の手入れだってするし、そんなお店がたくさんあったから、生活しやすい街の状態を保てていたんですね。
横の繋がりを大切に、
互いに支え合う文化がある。

山縣 あの頃はね、皆さん蔵前におもちゃ買いに来てたから、1年中忙しかったですよ。夏は夏のものが売れて忙しい。秋になればもうクリスマス用品。お正月は凧とか羽子板とかそういうものがたくさん売れた。
関 山縣さんや宮森さんでお互いにお客さんを紹介することってありますよね。
山縣 あるね。商売をやるなら町会に愛された方が良いっていうのはそういうとこにあるわけよ。例えばお客さんがウチに来て、「モデルガン欲しいんだけど」って言ったら「宮森さんところに凄くいいのがありますよ」って紹介する。
山本 実は「蔵前のお店の人たちって仲が良さそうですよね」ってウチのお客さんも言ってくださいます。昔からそうだったんですね。
山縣 昔から町会の仕事とかエリアの仕事がいっぱいあったからね。1月なら新年の挨拶回り、2月なら節分の豆まき、そうするとすぐに6月最初のお祭りの話になってくるわけですよ。何しろお祭りが一大イベントだからね。そうやって地域の横の繋がりが出来てくる。
山本 お祭り!そういえば1年がかりで準備すると伺いました。

宮森 節分が過ぎると、お神輿をどこに回すんだとか、子供の山車をどうするかとか、誰が何の係をやるんだとかっていうのが山ほどある。この辺りだと蔵前神社と榊神社と、それから鳥越神社とかね。
山縣 昔はお店もいっぱいあったからお神輿も俺たち地元の住人が担いでたよ。
山本 自分のお店のことだけで忙しいはずなのに、地域のことも年間を通して取り組まれるなんて、当たり前のようにお話しされていますけどすごいことですよね。
関 そうだよね。地域の仕事も皆でやるからお互いの人となりを知って、お店同士仲良くやっていけているんだと思うよ。

「商人の街」から
「ものづくりの街」へ。
関 蔵前は、ここ10年、20年くらいでおもちゃ問屋さんが廃業した跡などに、カフェや古着屋さん、クラフトを扱うお店が増えて、マンションもどんどん建つようになって、『アド街ック天国』で紹介されたり、「東京のブルックリン」と言われたりするようになりましたね。
山縣 「東京のブルックリン」って言われる前には、「東京のイーストエリア」って言われてちょっと一時期評判になったよ。「カチクラバシ」って言ってね。御徒町の「徒」と蔵前の「蔵」と、浅草橋の「橋」で「徒藏橋(カチクラバシ)」って言って、ものを作るエリアにしようよっていう運動をした人がいた。
山本 なるほど、だから蔵前も「ものづくりの町」と言われるのですね。先ほどのお話しだと、ものづくりというより問屋さんのイメージの方が強かったので、なぜだろうと思っていました。
山縣 そうだね、どちらかというと御徒町のあたりがもの作りをしている人が多いエリアで、材料を売ってるお店も多かった。けど明確な境があるわけじゃないから蔵前にもものづくりをしている人はいるね。あとは都心の半分以下の家賃で交通の便もいいから、この地域に出てくる人が増えた。
関 そうですね。歩いていると毎回新しいお店を見つけるような気がします。
山縣 それで今、我々が一番困ってるのはそういう人たちと、古くからいる我々との接点がないことなんだよね。彼らは土日商売だけど、我々は土日休みだからね。なかなか話のしようがないんだ。

山本 確かに私たちも数年前に蔵前に来ましたが、まだまだ地域の方との接点は少ないと思います。
山縣 そうでしょ。でも、そういう人たちからもやっと町会費をもらえるようになってきた。要するに都税とか区税とかと一緒で、町会税なんですから協力してくださいと。
山本 なるほど。
山縣 実際の問題として、人口は増えるけど町会費の収入が少なくなっているから、解散しちゃった町会もあるんだよ。でも、まだこの辺りはね、おかげさんで新しいお店がどんどん出来てるし、(宮森さんの方を向いて)こういう町会長だから(笑)みんな協力してるんですよね。
宮森 昔から商売やってる身から言わせてもらうと、やっぱり町会に好かれるって大事なことだと思うね。新しくできたお店も、地元の人たちが使ってくれるようなお店になるきっかけに町会がなったりするんじゃないかな。

古くからいる人たちと
新しい人たちが協力して、
さらに温かい蔵前に。
宮森 ゆくゆくはね、2丁目に下水道局の広場がありますから、あそこで年に1回だけでも町会と新しい店の人たちがイベントを組んでやると、もっと盛り上がるんじゃないかな。
関 いいですねえ。蔵前国技館のあった場所ですね。
山縣 当初、下水道局が蔵前にできるって時には、地元の人はみんな反対したわけだけど、そんないきさつもあって、下水道局さんも近隣の方たちとは仲良くして、地元の人たちから何か申し出があった場合には、出来るだけ協力しましょうっていう暗黙の了解がある。
宮森 我々の町会は毎年、縁日大会を下水道局の広場でやってますから。大体400人ぐらいの子どもたちが来て楽しんでる。
山縣 縁日としては、台東区ではいちばん人出が多く、人気のあるイメージだよね。
宮森 その縁日の最後には山縣さんが花火をポーンと上げる。
山縣 ちゃんと許可を取って、本物の花火を打ち上げているんです。
関 最後はナイアガラですよね。
山本 すてき!
宮森 そこで古くからいる我々と新しいお店の人たちが、さらに大きなイベントを組めば、もっと蔵前が広く知られることになると思うんですよ。

山本 それこそそういう若いお店の人たちが「何かしましょう」みたいに、お声がけさせていただいたりした時っていうのは、山縣さんも宮森さんたちも、フレンドリーな感じで協力してくださるんですか。
山縣 もちろん、喜んで。
宮森 蔵前は一本の通りにまとまった商店街じゃないけど、点在しているお店の人たちがまとまる機会にもなるしね。
山本 そんなふうに言っていただけると、新しいお店の私たちも心強いです。さて、いろいろなお話を伺ってきましたが、最後にこの冊子を読んでくださってる方に何か一言いただけますか。
宮森 出会いはお祭りだろうね。お祭りに積極的に参加してほしいね。お祭りで親父がいて、子供がいて、孫がいて。そこでそろうじゃないですか、人が。それで家族ぐるみで知り合っていって、仲良くなっていけたらいいんじゃないかな。
山縣 食べるものが美味しいお店も、割合安くていいもの売ってる店もいっぱいあるし、さっきから言ってるように交通はすごい便利がいいし。それでちょっと足を伸ばせばね、スカイツリーもすぐだし、浅草もすぐだし、銀座もすぐだし、楽しめるところいっぱいあるから。それこそ温かい街だよね。
関 そうですね。やはり温かい街ということで、もう今日話したと思うんですけど、気取らなく、買い物もお食事もできる街なんじゃないかなっていうふうに思うので。そういったところに遊びに来ていただいて、住んでいる人にも気兼ねなく声を掛けられたりとか、そういう街であったらいいかなって思います。
山本 ありがとうございました。今日のお話しを通じて、蔵前の街の温かさはずっと昔から育まれてきたものだったのだと感じました。蔵前の街の一員として、これからもどうぞよろしくお願いします。
写真提供:山縣商店様、珠里様
今回の対談は
揖取稲荷神社 の社務所にて行いました。
祭神 倉稲魂神、御歳神、豊受姫神
住所 台東区蔵前2-2-11

蔵前商店街は加盟店・メンバーを募集しています
蔵前商店街は台東区蔵前近郊の地域振興や交流・連携、明るいまちづくりを目的に各種イベントや情報発信をしています。
主なイベント等は蔵前商店街加盟店(現在約83軒)のうちの有志で運営しています。
気になった方は下記SNSのDMからお問い合わせください。
蔵前商店街SNS
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もちろん、蔵前商店街の取り組みに興味のある近隣の事業者の方からのご連絡もお待ちしています。