姉のデスボイス
姉は、デスボイスの糠漬けを作るのが、大学生のころからとても上手だった。
あの細身な身体からどうやって出すのかわからない、地獄の底から聞こえてくるようなデスボイスは、唯一無二の素材とされ、デスメタルファンのみならず、糠漬けファンからも、高い評価を得ているのである。
姉がデスボイスの糠漬けを作り始めたのは、大学三年生の時だった。
大学時代に組んでいたデスメタルバンド「デスます調」が方向性と音楽性と人間性の違いから解散した直後、姉は自前のぬかどこにデスボイスを吐き出すことを始めた。
姉は小さいころから糠漬けが好きだった。私はどうも糠漬けというものが苦手で、おいしそうに食べる姉の姿を見るたびに、自分とは違う星の下に生まれた人なのだろうと思わずにはいられなかった。
実際、姉は大学生になるとすぐにぬかどこを買い、どんなものでも糠漬けにして食べていた。野菜や魚ならまだわかるが、チョコレートの糠漬けを食べていることが判明した時には、さすがにビックリしてしまった。
アンタも食べると言われて差し出されたチョコレートの糠漬けは、私が今までに食べてきたチョコレートの中で、最もマズかった。
だが、姉はマズそうに顔を顰める私を見てケラケラ笑いながら、板チョコ一枚丸ごと糠漬けにしたものを、バリバリと実においしそうに食べていた。
それほどまでに糠漬けが好きな姉が、デスボイスを糠漬けにすること自体は、特に驚くべきことではないのかもしれない。
勿論、声を糠漬けにできるという事実自体は、驚くべきものだ。実際、姉自身、声が糠漬けになるとは考えてもいなかったのだから。
はじめてぬかどこにデスボイスを入れた時、バンドの解散や、そこへ至るまでに自分も含めてメンバーが飛び交わせたきつい言葉がグルグルと頭の中を駆け巡り、彼女はかなり疲弊していたのである。
ぬかどこに頭を突っ込んで、得意のデスボイスを繰り出したのは、大好きな糠漬けの中で、大好きなデスメタルに囲まれて生きていたいという思い、耐えられない現実に対する逃避だったのだと、姉は時々振り返る。
その結果として、デスボイスが見事な糠漬けになることを発見したのは、言ってみれば副産物であり、姉も全く予期していなかった。
私も何度か見せてもらったことがあるが、デスボイスの糠漬けは、茶色い不定形の塊のような形をしている。
ナマコみたいだねと言ったら、物凄い勢いで睨まれ、誰の声がナマコだとヘッドロックをかけられたこともある。
触感は見た目と同じく、柔らかいものだった。イカに近いと言えばいいだろうか。
糠漬け嫌いの私にはマズく思えたが、そうではない人であれば、酒のつまみとして楽しめそうだなとも思った。
普通の糠漬けと異なるのは、噛むと姉のデスボイスが口の中で鳴り響くこと。糠漬けされて化学反応が起きているのか、姉が通常出すデスボイスよりも少しだけ渋い。
現在、姉は株式会社デスボイスという会社を起業して、デスボイスの糠漬けを全国展開している。一から勉強して食品衛生責任者の資格を取り、国際的な衛生管理手法を取り入れることで保健所の許可を得た姉の熱意には、並々ならぬものがある。
会社には、姉と同じように夢破れて解散したデスメタルバンドのボーカルたちが社員として集まっている。
ボーカルたちもまた、食品衛生責任者の資格を取り、社長兼先駆者の姉から手解きを受けて、デスボイスの糠漬けを生産している。
人間の声が材料なので、デスボイスの糠漬けの生産量はそれほど多くない。
だが、食べるとデスボイスが聞けて、しかも味もいいとあって、デスメタルファンからも糠漬けファンからも高い支持を得ている。
音楽系の雑誌でデスボイスの糠漬けが取り上げられることもあるらしく、姉の会社の応接間には、記事が載った雑誌がズラリと並べられているのだとか。
自分が夢描いていた未来とは全然違うけれど、糠漬けもデスボイスも活かせることができているから、今はとりあえず幸せだよ。
定期的に会う姉の口調はいつも満足気で、新商品について語る顔は、とても輝いている。