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33章 インドで瞑想すると人生が変わる! は本当なの?

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 アドバイザー講座の殺人事件(32章)からようやく、いつもの日常にもどり、蔵子とまろみは、平凡な日々のありがたみを痛感した。
そして、K社の知名度だけは上がった。

 ホームページのアクセス数も二ケタ違うほどの数になり、その分、問い合わせや、迷惑メールも増えた。

 週刊誌やテレビのインタビューはすべて断ったが、まことしやかな憶測記事が増え、「夫を片付ける講座」だという噂が流れ、蔵子は「消せば増える」と、抗弁したいのを我慢して沈黙を続けて3か月がたった。

 明日の「新わくわく片付け講座」は事件後、初めての開催である。
殺人事件の影響がわからず、こわごわ講座の募集をすると、定員は一時間で埋まり、二人は良くも悪くも、マスコミの力を思い知らされた。
「キャンセル待ちが出るなんて、初めてですねぇ」
感激して、まろみの頬は紅潮している。
「あと二、三カ月のことよ」
「人のうわさも七五日ですか」
「よく知っているじゃない」
バカにしないでくださいと言いながら、鼻歌交じりでまろみは講座の資料を確認した。

 翌日、会場の準備をしながら、まろみは窓から青い空を見上げた。
「どうしたの、まろみちゃん?」
「いえ、こうしてまた講座ができてうれしいなと思って」
「あら、まろみちゃんでもそんなことを考えるのね」
まろみちゃんでもの、でもはいりませんよと言いながら、まろみは受付に座った。

受付のまろみが、講座で配る資料を並べていると、あの、と声をかけられた。
顔を上げると、三つ編みの髪を背中に垂らし、玉虫色に光るサリーをまとった女性がいた。
といっても、顔つきは日本人である。
だからといって、必ずしも日本語が通じるとは限らない。

この施設で、インド舞踊の講座はあったかしら? 今のは、あの? それともハロー? と迷いつつ、まろみは、なんでしょうと答えた。
「受付は一時半からと書いてありましたが、迷ってはいけないと思って早めに出たら、早過ぎまして、まだ十分早いのですが…」
日本語でほっとしたのと同時に、まろみはあわてて、立ち上がり、失礼しました。
「新わくわく片づけ講座」にお越しですか? と訊いた。
「はい、そうです。正宗初実です」
まろみは名簿の一番上の名前を確認した。
「もう、準備はできていますので、どうぞ」と部屋に案内した。

 受付に戻ったまろみは、初実の受講申込書を見た。
受講の動機は、インドに行って色々考えて、シンプルな暮らしをしたいと思うようになりました、と書いてある。

 二時になり、蔵子のあいさつと共に「新わくわく片付け講座」が始まった。
 参加者の自己紹介になるのをまろみは待ちかねていた。
サリーを着た玉虫色の女性に興味があったからである。
 初実は自分の番になると立ち上がった。
すらりとした立ち姿が凛として美しく、まろみはステキとつぶやいた。
「正宗初実です。あたくしがこの講座に参加したのは、モノを一掃したいと思ったからです。
実を申しますと、あたくしの夫は、某外食チェーンの会長です」
えっ、どこのお店? という声がひそひそと交わされ、「サリーを着た変わり者」を見る目から、羨望へとまなざしは変化した。

「あたくしはこの二十年余り、常に『会長の奥さん』と呼ばれてきました。
それが、我慢できなくなったのです。
元々、わたしたちは貧乏でした。
結婚二年目に夫の父親の経営する工場がつぶれ、二人でリヤカーに生まれたばかりの赤ん坊と、野菜や干物を載せて行商から始めたのです」

そういえば、週刊誌でそんな話を読んだことがあるとささやく者がいた。
「行商から、店を持ち、それがこぎれいなレストランになり、全国にチェーン店を持つまでになりました。しかし、あたくしと夫の距離はそれに比例して離れて行きました。
子供も独立して、あたくしにはすることがなくなったので、死ぬまでに行きたいと思っていたインドに行きました。
ガンジス河で沐浴し、アシュラムと呼ばれる道場で一日座って瞑想をしました。
そこで、気付いたのです。このサリーを着ていますと、とても心地よいことに。
それに一枚の布ですから畳んでも場所をとりませんし、寒ければ上にカーディガンやオーバーを羽織るだけで一年中着られる。スカートの丈や流行に惑わされる事も無い。
体型が変わっても大丈夫。
そして、食事も毎日カレーでしたが、これが、おくらのカレーや、豆のカレーなどヴァリエーションが豊富で飽きません。野菜中心で健康的な上、便秘も解消しました」
 この「便秘も解消」というキーワードを秘かにインプットした者は多かった。
「それに、今夜のおかずはとあれこれ悩まなくても、カレーに旬の野菜を入れれば良いのです。つまり、サリーとカレーであたくしの人生は一変しました」
だんだん熱を帯びてきた初実に、参加者はあっけにとられた。

「日本に帰って、サリーを着たあたくしの姿を見た夫は、脳みそが暑さにやられたのか、そんなかっこうで外に出るなと言いました。そして、カレーを作ると、病人じゃあるまいし、こんなどろどろしたものが食べられるかと、皿をひっくり返しました。
夫には愛人が二人います。一人は元秘書で、もう一人はクラブのママです」

 あらら、あっけにとられてまろみはつぶやいた。
蔵子は成り行きを黙って見ていた。
「そんな夫との距離はますます開きました。インドで瞑想してわかったのです。宝石をじゃらじゃらつけて着飾ったあたくしをほめてくださるのは、夫の機嫌を取るためのおためごかしだったということが。そんなこともわからず、喜んでいた自分が馬鹿みたいです。
そこで、自立して一人で暮らしたいと思うようになりました。
夫は二人の彼女に面倒を見てもらえば良いのです。
インドでの発見を無駄にしたくないと思いついたのが、やはりサリーとカレーです。
店を借りて、半分はカレーを食べてもらうレストラン、あと半分でサリーを売ります。
店の者は全員サリーを着て、もちろん、着つけの教室もします。
お好みのサリーを着て写真が撮れるコーナーも作りたい。
夢はどんどんふくらみます。
そこで、資金が必要ですが、夫の会社の株を少々持っていますので、それをもとに、あとは、腕時計や宝石を売ろうと思っています。
洋服はリサイクルショップに出します。そのために、三つのクローゼットを整理する方法を学ぶためにこの講座に参りました」
 腰をおろしかけた初実は、そうそう、とまた立ち上がった。
「お店をオープンするのに、働いて下さる方を募集しています。若い子はハンバーガー屋さんで『いらっしゃいませ~』と誰彼なしに言ってれいばよいのです。
あたくしたち熟女は人生経験がありますから、きちんと、おひとりおひとりに接して応対できるのが強みですから」
ようやく終わったかと思ったら、まだ続きがあった。
「もちろん、素敵なサリーを着てお仕事をしていただきます」

あの、初実さんに質問していいですか、と高山孝子が蔵子に訊いた。
予想外に自己紹介が長く、講義が始められないが、ここまできたら下手に遮るより、流れに任せようと蔵子はうなずいた。
「お店のオープンはいつ頃ですか」
「改装や準備がありますので、オープンは三ヶ月後です」
「わたしもサリーを着てみたいのですが、まだ手に入らないのでしょうか」
「あたくしの家にお越しいただけたら、ご用意できますよ。それに、カレーも召し上がっていただきましょう」

 講座が始まっても、受講者は蔵子の話に身が入らなかった。
理由は、皆、初実が孝子に提案した「サリー体験とカレーの試食、プラス、豪邸訪問」に気もそぞろだった。
熱心なのは初実だけだった。

蔵子は、洋服などの要不要を決める時に、家族、友人ではなく、信頼のおける第三者にサポートしてもらう方法もあり、意見をもらうと決断しやすいと話した。
なぜなら、第三者がいることによって、一歩下がって、他人の目を通して自分の持ち物を見られるからである。

例えば、十年前に買ったコートがあるとする。
夫にそんな古いものは捨てればいいのにと言われると、高かったし、もったいないと答えてしまう。
娘に、お母さん、そのコート、もうボタンが止まらないでしょうと言われると、うるさいわねえ、これから痩せるのよと答えてしまう。
しかし、あかの他人に、これからそのコートを着る機会はありますかと尋ねられると、そうですね、ないですねと落ち着いて答えが出せる。

この話をすると、初実が手を挙げた。
「あの、その第三者を、先生がうちに来てしてもらえませんか。もちろん、お仕事として。
そうすれば、ひとりでイジイジ片付けるより、すっぱり決断できて、お店のことに早く取りかかれます」

 蔵子は少し考えて、わかりましたと答えた。
高山孝子がおずおずと言った。
「厚かましいのですが、その時に、わたしも参加させていただくのはダメでしょうか。
お邪魔はしませんので…見学ということで」
初実は、躊躇なく、いいですよと答えた。

あの、わたしも、わたしもの声が続き、とうとう全員が参加することになった。
 地図を手に、蔵子とまろみは豪邸の並ぶ住宅街を正宗邸に向かった。
インターホンで名前を告げると、ギーッと大きな鉄の門が開いた。
 中年の女性にリビングに通されると、講座に参加した全員が来ていた。

三十畳はあるかと思われる部屋のあちこちにソファーが置いてあり、四、五人がグループになって座り、チャイを飲んでいた。
 こんにちはという声がこだまし、皆、盛り上がっているようだ。
まろみがバッグを置こうとして、サイドテーブルの上のガラスのランプに肘が当たった。
ランプの傘が揺れたので、蔵子が慌てて傘を押さえた。
「大丈夫ですよ、少し当たっただけだから」
「これが割れたら、まろみちゃんは初実さんのお店で二、三年ただ働きしなくちゃならないわよ」
うそ、とまろみは目を丸くした。
「これはラリックだと思うから」
「ラリってるんですか?」
紺の更紗のサリー姿で初実が戸口に現れたので、蔵子は、この話はまた後でと立ち上がった。

 案内された二階の和室も宴会ができそうな広さだったが、そこには色とりどりのドレスや、きものが部屋いっぱいに広げられていた。

蔵子とまろみの後に続いた者たちから、キャーッとか、わァーッとか、すごいと息をのむ者もいた。
「これ全部初実さんの衣装ですか」思わず、まろみが訊いた。
「そうなのよ、ほとんど一度しか手を通していないの。デパートを儲けさせただけだったわ」

蔵子はざっと見て回った。
「まず、こちらのパーティー用のドレスから見て行きましょうか。それと、不要なモノを入れる箱がいりますね」
それなら、ここに用意してあるの、と初実が押入れを開けると畳んだ段ボールの箱が積まれていた。
 まろみが段ボールを組み立てている間に、蔵子は訊いた。
「娘さんか、息子さんのお嫁さんに譲られるということは?」
「娘はいないし、嫁はあたくしより十センチは背が高くて、ウエストも十センチ大きいの、たぶん。それに仲がいいとは言えない姑のものなど欲しくもないでしょう。
嫁はあたくしのことを趣味が悪いと思っているのよ」
肩をすくめて苦笑する初実に、蔵子は頷き、孔雀色の大胆なデザインに、裾まわりは銀のスパンコールがちりばめられたドレスの前に立った。
「今後、このドレスをお召しになる予定は?」
「全然、ないの。もう、退屈なパーティには行かない、だから、このあたりのドレスは全部いりません。どなたか、欲しい方があれば差し上げますけど」

ギャラリーのように、初実とくら子を取り巻いている中から「はい」と手が挙がった。
隣の女が、あなたには入らないわよと、ドレスと本人を見比べた。
「わたしじゃないですよ。娘が近々結婚するのでお色直しにどうかと思って…」
「身長は?」
先ほどの勢いはしぼみ、手を挙げた女は無理ですねえとうなだれた。
最近のコはみんな栄養がいいから、背が高いのよねえと誰かがつぶやいた。

段ボールの箱に次々とドレスが詰め込まれていく。
とりあえず、まとめておきましょうと、蔵子は次に移った。
こちらは、シャネルスーツにツイードのスーツ、卵色のシルクの光沢のある柔らかいスーツなどだった。
「こんなに肩パッドの入ったものを着てたのね。それに、スカートの丈で時代がわかるわ」
初実のつぶやきに、そういえば、首相夫人がミニスカートをはいて話題になった事があったわねぇとか、景気とスカートの丈が比例すると言ってた時代もあったと、ギャラリーは好き勝手なことを話し合っている。

スーツも箱におさまった。
次はブラウスとスカート、パンツと進んだ。
ブランド物のスカーフと、ストールは大騒動になった。
皆が、飛びついたのだ。
結局、希望者の多いものはじゃんけんになった。

白いカシミアのストールには八万円の値札がついたままだった。
「初実さん、このストール、まだ値札がついていますけど、いいのですか」
一人が、糸でぶら下がっているデパートの値札を見つけた。
初実はちらと眼をやり、それはだめよ、やめといたほうがいいと、ストールを手に取って広げた。
「ほら、虫に食われた穴があいているでしょう。買ったままで忘れていたら、こんな穴があいていたの」
まろみは、頭の中で八万円のストール、ストールが八万円、穴があいても八万円…と繰り返し、ため息をついた。

蔵子はたとう紙の上に広げられた和服を確認していた。
「きものもよろしいのですか。喪服もありますが」
「ええ、もちろん。いくらなんでもサリーで葬儀に行くのは無理だけど、舅、姑も見送りましたし、夫を見送る時には洋装にします」
 さらっと、夫を見送ると言った初実の言葉に、女たちは、初実さんはそこまで考え、覚悟の上で衣類を処分しておられるのだと、わが身を振り返った。
 
バッグの山の処へ行くと、栗原敦美が訊いた。
「これ、新品じゃないですか」
布袋の中には黒いケリーバッグがあった。
「夫が海外に出張した時のおみやげよ。たぶん、元秘書の彼女に頼まれて、ついでにわたしの分も買ったのだと思うわ。つまり、良心の呵責の塊ね。だから、わざと使わなかったのよ」
「これ質屋さんに持って行くと、いい値段で売れますよ」
敦美の隣の女が、こらこらとたしなめたが、初実は微笑んだ。
「質屋さん? なつかしいわねえ。昔はよく行ったのよ」
えっと、驚いた女たちは初実を見つめた。

「貧乏してた頃だけど、米櫃が空になって、お金もないし、育ち盛りの子供に食べさせなきゃならないから、母が嫁入りの時に持たせてくれた着物を質屋に持って行ったのよ。
子供たちには、第七銀行に行くって言ってたのよ。あの頃は貧乏だったけど、楽しかった」

 壁際にずらりと並んだ段ボール箱を見て、蔵子は初実に訊いた。
「本当は、ご自身で、全部処分すると決めておられたのではないですか」
初実は、そうねえ、でも、誰かに背中を押して欲しかったのよと、とにっこりした。
「そこで、蔵子さんに相談なのだけれど、これをどう処分するかなの」
なぞなぞを出す子どものような初実の問いに、蔵子は初実をじっと見た。

「それも、決めておられるのでは?」
「ふふふ、ばれたか。実は、オークションを開きたいと思っているの、少しでも収益が上がれば、インドのストリートチルドレンのための基金に寄付しようと思って」
少し離れたところで、耳をダンボにして聞いていたまろみが寄ってきて、ダイアナ妃みたいですねえと言った途端に、周囲がしんとなった。

空気が変わったのを感じたまろみが、そわそわと周りを見回し、なんか、変なこと言いました? と、蔵子に救いを求めた。
「あれは遺品のオークションだった」
まろみは左手でぽんと額を叩いて、初実さん、す、すいませんと、頭を下げた。
「いいのよ、まろみさん。死んでから、他人に自分のモノを託すより、自分で処分する方がどれほどすっきりするか…」
初実の言葉で、まろみはほっと胸をなでおろした。
「それで、オークションなのだけれど、場所は夫のレストランの休みの日に借りきろうと思っているの。もちろん、お料理は食べ放題でサービスする。店のコックさんに手伝ってもらってビュッフェスタイルにするわね。それと、お手伝いして下さる方があれば…」

はい、はい、手伝いますとにぎやかに声が上がった。
「あの~、初実さん、オークションを仕切る人はいるのでしょうか」
原口元女がおずおずと訊いた。
「それが、まだなのよ。誰でもできるってわけでもないみたいだし、蔵子さんにご相談しようかと思っていたことなの」
「私ではダメでしょうか」
「えっ、元女さん、ご経験がおありなの?」
「いえ、経験はないのですが、わたし、娘時代に、浪曲師に弟子入りしてたもので…才能がないとわかって辞めましたけど」
初実と蔵子は顔を見合わせた途端に、元女の声が弾けた。
「なにがなにしてなんとやらぁー、このケリーバッグは新品でぇー、さるお宅のお屋敷に眠っておりました。さて、皆さま、このケリーバッグは、かのモナコ王妃グレース・ケリーが妊娠中にお腹を隠すのに使った写真が公開されてぇー、奇しくもこの名がつきましたぁー」

 元女の声は屋敷中に響くかと思われるほどだった。
初実は蔵子を見て、無言でうなずいた。
「決まりだわね。元女さん」と蔵子は笑顔で、元女に握手を求めた。
キャー、うれしいと元女は両手で蔵子の手を握り返した。

 こうして、二ヶ月後にはレストランでオークションが開催された。
蔵子が指示したわけではなく、講座の受講者たちが初実を中心にして「実行委員会」を立ち上げた。

委員会のメンバーの行動力は素晴らしく、チラシや招待状を作り、町内会やカルチャーセンターの仲間などに配った。
 当日のタイムスケジュールから、料理のメニュー、サービスに至るまで、細かな心配りがみられた。

 オークション会場のレストランからの帰り道、まろみは興奮していた。
「蔵子さん、わたしのサリー姿はどうでした?」
「なかなかよかったわよ」
そうでしょう、わたしもそう思うんですよねと、まろみは小鼻をふくらました。
「あとひとつ足りなかったのは…」
なんですか、額の赤い点ですか? とまろみは訊いた。
「は、な、わ」
「へ? そりゃひどい、牛じゃないんですから」とまろみは、バッグを振り回した。
「それさえあれば、まろみちゃんは間違いなくインド人に見えるわよ」
「わたしはインド人になりたいのじゃなく、サリーを着て初実さんのようにカッコよくなりたかったのです」
「その割に、あっちのテーブル、こっちのテーブルでカレーを食べてたじゃない」
「あ、あれは、試食ですから。初実さんのお店のメニューにどれがいいか、モニターをしてたのです」
「それにしても、オークションは大成功だったわね。売り上げも二百万を超えたし、お店の宣伝もできたし、あれだけの女性たちの口コミが広がるとすごいわよ」

「そうですね。サリーもカレーも大人気でした。しかし、オークションのほうは元の値段を考えると…」
「モノって、そういうものなのよ」
「そういえば、景気良く、バッグや洋服を競り落としていた女の人がいましたねえ」
「ああ、葛城さんね、あの人はパフォーマンスよ」
「は? パフォーマンス? どういう意味ですか」
「元市議会の議員さんなのよ。ストリートチルドレンに寄付するために協力していますっていう『ふり』かも…」
「次の選挙のためですか」
たぶんねと、蔵子は口をつぐんだ。

「ところで、オープニングのあいさつで初実さんが話された『りんじゅうき』って、なんですか? 」
「ううむ、立ち話ですむ話でもないから、お茶でも飲みながらにしましょうか」

近くの喫茶店で、蔵子はまろみに説明した。
古代インドでは人生を四つの時期に区切るそうで、「学生期」(がくしょうき)は生まれてから二四歳くらいまで。「家住期」(かじゅうき)は二五歳から四九歳、「林住期」(りんじゅうき)は五十歳から七四歳、「遊行期」(ゆぎょうき)は七五歳から九十歳とされている。
学生期で学び、家住期で働き、家庭を作り、子育てを終える。そして、人生のクライマックスである林住期で自分が本当にやりたかったことを改めて問いかける時期だとされている。

「初実さんは林住期になったから、自分のやりたいことを思い切りやろうとしておられるのですね」
「たぶん。それに、今までのしがらみも清算されるのかもしれない」
「夫は愛人のところだし…次は離婚かもしれませんね」
「さあ、それは…夫婦のことは、他人にはわからないものだから」

 蔵子は冷たい抹茶オーレを飲みながら、クロゼットのモノがなくなった広い家で、初実は今ごろどうしているのだろうかと思った。
 まろみは、隣の席の男性が広げている夕刊の小さな見出しに、あっと声を上げた。
蔵子も気がついた。

初実の夫の会社の株主総会で、株主から、業績は昨年の二割ダウンで、危機的状況なのに会長の報酬が二億とは高すぎると紛糾した。
会長である初実の夫、隆泰の写真も大きく載っている。
「マスコミに取り上げられると大変だわねえ」と、蔵子は、初実のことを再び考えた。

 半月後、初実から届いたオークションの招待状を蔵子はしげしげとながめた。
オークションは三日後だった。
横から覗き込んだまろみが、えらく急な話ですねと、不思議そうにつぶやいた。
「今度は家具や美術品から、家まで売ってしまうみたい」
「ひぇー、あのお屋敷までですか」
まろみは後ろにひっくり返りそうなほど、のけぞった。
蔵子はうなずいた。
「しかし、あの家だって、初実さんの一存で処分できるのですか?」
「そりゃあ、ご夫婦で相談なさったんじゃないの」
「なんせ、年収二億ですものね。また、新しい家を建てるとか…」
「そういう話にはならないような気がする」

 急いで処分しなければならないのには事情があるに決まっている。
大きな屋敷に豪華な家具や美術品。
それをバタバタと処分する理由とは…? 
蔵子の思いはまろみに通じず、オークションの日は「新わくわく片づけ講座」があるから、見に行けないとしきりに残念がっている。
どうやら、居間に飾ってあった、バラの花で縁取ったロートアイアンの鏡が気になっているらしい。

 オークションが終わった二日後の新聞で、初実の夫の会社の粉飾決算が書きたてられた。
新聞を手に、蔵子はこれだったのねとためいきをついた。
 まろみに、出勤が少し遅れるとメールを入れて、蔵子は初実の家に向かったが、インターホンを押しても応答がなかった。

もしかしたらと、近日開店予定の初美の店は、扉が開いていた。
 おそるおそるのぞくと、初老の男が段ボールの荷物を運び、初実は、それは、こっち、あれはそこ、と椅子に座って指示をしていた。
怪訝な顔をしている蔵子に、初実があら、蔵子さん、おはようと声をかけた。
「おはようございます」と答えた蔵子は、頭にタオルを巻いて荷物を運んでいる男の顔を見た。どこかで見たような気がする。そうだ、新聞だ。
初実が紹介した。「うちの居候よ」
えっ、と蔵子は訊き返した。
「借金抱えて、行くところがないからね」

しかし…愛人は? という言葉は口に出せず、戸惑う蔵子に初実は云い放った。
「金の切れ目が縁の切れ目だって」
蔵子は、はあと、あいまいに答えた。
「あたしたち、今、六畳二間のアパートに住んでいるのよ。ふふふ、昔に戻ったみたいで、おそうじも家政婦さんに頼まないで済むし、気楽な暮らし」
初実はさばさばした口調で、林住期のわたしたちにとって、これで良かったと思ってるのよと微笑んだ。
「お店はもうすぐ開店ですか」
「ええ、夫はカレーのメニューを充実させるって張り切ってるの。オープンの時にはまろみさんと来てくださいね」
もちろんですと答えて、蔵子は店を後にした。

 事務所に戻ると、まろみがふくれていた。
「どうしてわたしも連れて行ってもらえなかったのですか」
「事情がわからなかったし、そうそう事務所を留守にする訳にはいかないでしょう。
オープンの時には二人で行きましょう」
やったと、まろみは指を鳴らした。

 蔵子が、初実は夫とアパートに移ったことを話すとまろみはしょぼんとして声を落とした。
「まるで天国から地獄ですね。あんなお屋敷の奥様が…気の毒に」
「でも、初実さんは今の方が幸せそうよ」
まろみは信じられないというように、ぱちぱちとまばたきをした。
「強がっておられるのではないですか」
「それがそうでもないのよねえ」
「ふむ、わたしはまだ修行が足りないのでしょうか」
「さあ、今度初実さんに訊いてみたら?」
そうしますと、まろみは神妙にパソコンに向かった。

33章 終

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