3章 思い出はアルバムの中に
「新わくわく片付け講座」では、毎回講座の最後に感想を記入してもらう。
片山喜代は最終回の感想を次のように綴った。
この講座のお陰で、決心がつきました。
半月後に有料老人ホームに入居します。夫が十年前に亡くなり、それ以来ひとり暮らしをしてきました。
自分ではしっかりしているつもりでしたが、最近二度ほど鍋を焦がしました。
台所から煙が出ているのを見て、お隣の奥さんが気付いてくださり、火事にはなりませんでしたが情けなくなりました。
まだまだ老いてはいないと思っていましたが、年をとるとはこういうことなのだと思いました。
息子は同居しようと言ってくれますが、知らない土地へ行って、嫁や孫に気を使って暮らすのはごめんです。
ホーム入居にあたり、思い出の詰まった荷物をどうするかが問題で悩んでおりました。
息子や嫁に片付けを頼む気にもなりませんし、また、このまま放っておく訳にもいきません。
講座を受講して、気持ちの整理もつきましたし、荷物の整理も手伝っていただけるということですので、アドバイスと共に整理をお願い致します。
片山喜代
十日後
片山喜代は、真っ白な割烹着に手ぬぐいの姉さんかぶりという、気合いの入ったいでたちだった。
この日のスタッフは、蔵子とまろみに荷物運びの男子大学生三人、荷物整理の女性三人とカメラマンの北河。
業者は古書店「ぽんぽん堂」の恵比寿、リサイクルショップ「ひきとりや」の小渕、骨董屋「銭亀」の榎阪の三人。
喜代の話では、有料老人ホームといっても、持って行けるのはせいぜいタンス一棹(さお)とテレビに小ぶりなテーブルとイス、衣類の収納ケースに寝具くらい。思い出の品も持って行けるのはわずかなものだけとのこと。
カメラマンの北河が屋敷の外観の写真を撮り始めた。
孫が生まれた記念に夫婦で植えたという、しだれ桜の花が主の旅立ちを祝って枝を広げていた。
娘時代から茶道をたしなんでいる喜代は季節ごとの茶花をたくさん植えていたので、ひとつひとつていねいに撮った。
屋敷の片付けは地元の大学の名誉教授だった夫の書斎から始まった。
古書店「ぽんぽん堂」店主、恵比寿の指示で学生が本を入れる木箱を運びこんでいく。
三人の学生は恵比寿の柔道部の後輩で、書斎に入ると、急に部屋が狭くなったように見えたが、手慣れたもので動きに無駄がなくきびきびと動いた。
本の整理は重労働で、七十五歳の女性には手に余る仕事である。
その間に、荷物整理の女性三人は納戸で喜代の指示により段ボールにさまざまなものを詰めていく。
北河は喜代の思い出の品の写真を撮るのに忙しい。
納戸の次は応接間、居間、寝室と移っていく。
ソファーやサイドボードなど、大きな家具をトラックへと学生たちが運んでいく。
ごみとして処分するもの、リサイクルとして引き取ってもらうものを分けてある。
床の間があり、炉が切ってある8畳の和室では、白い手袋をはめた「銭亀」の榎阪が茶道具や掛け軸など、桐の箱に入った茶道具の確認に余念がない。
3時になると、喜代が一休みしてくださいなと声をかけた。
居間で車座になって桜茶と草もちがふるまわれた。学生三人は縁側に座布団も敷かず正座をしている。
バンダナで汗をぬぐいながら柔道部で一番からだが大きい三国は草もちにかぶりついたが、あわてたのか、喉をつまらせ、湯呑の茶を飲んでまたむせた。
「このお茶、なんか浮いているんですが、虫かな?」
「三国、おまえ、桜茶も知らんのか」と恵比寿が呆れ顔で続けた。
「おいおい失礼なことを言うな。これは桜の花びらで、祝い事のあった時にいただく、ありがたいお茶だ。わかったか」
「うぉっす」
近頃の若いもんはとぼやく恵比寿に、喜代は笑顔を返した。
「毎年、この桜の花びらを塩漬けにしておいて、うれしいことがあった時に桜茶をいただくのです」
喜代にとっては新しい旅立ちの日だ。庭の桜を見ながら喜代は桜の思い出を語り始めた。
文学部の名誉教授だった夫は、西行の研究者で、自分が死んだらその灰を少し桜の下にまいて欲しいと言い残し、喜代はその約束を守った。
「ねがわくば 花の下にて春死なむ その望月(もちづき)のきさらぎの頃」
現代の流行には疎いが、仕事柄、古の事には詳しい「銭亀」の榎阪がつぶやいた。
喜代の顔が驚きから喜びに変わった。
「よくご存知ですね、夫は最期まで西行さんにとりつかれた人でしたからねえ」
北河は縁側でカメラを構えていた。
「僕は仕事柄あちこちの桜を撮りますが、この桜の色は不思議なピンク色ですねえ」
「そうなのです。もともとは白っぽい花だったのですが、夫の灰をまいてから、こんな色になったのです。桜色というより、紅梅色みたいでしょ。こんなことってあるのでしょうか」
恵比寿も雑学を披露した。
「アジサイは土が酸性かアルカリ性かによって花の色が変わるといいますが、桜も…」
恵比寿の言葉をまろみが遮った。
「きっとご主人が奥さまにピンク色をプレゼントなさったのですよ」
まろみのひとことに、一同は改めてさくらに目をやった。
桜がこの先どうなるかを尋ねるものはいなかった。
突然、カメラマンの北河が立ち上がった。
「喜代さん、桜をバックに写真を撮りましょう」
「え、こんなかっこうでは」
「一番お好きなお召し物で撮りましょう」
「私がメイクを担当しますので、まろみちゃん、手伝って」
蔵子も立ち上がった。
風に吹かれてはらはらと落ちる桜の花びらの中、薄紫の着物を着た喜代は輝いていた。
日が暮れ、最後まで残っていた蔵子とまろみに喜代が、畳に手を付き頭を下げた。
「本当に何から何までお世話になり、ありがとうございました。こんなに広い家だったのですね。50年の間にせっせとものをため込んで…お墓に持って行けるわけでもないのに」
蔵子はゆっくりとうなずいた。
「おかげですっきりしましたよ。わたし一人ではとてもこんな大仕事はできませんからね。ホームに入ったら陶芸クラブに入って、昔からやりたかった焼き物をしたいと思っているのです。骨壷でも作ろうかしら、ホホホ」
二週間後、家や思い出の品の写真をアルバムにして、蔵子とまろみはホームの喜代を訪ねた。
写真を見ながら、喜代は初めて涙を流した。
「私が死んだらこのアルバムを棺に入れてもらいます。葬儀には、北河さんに撮ってもらった写真を飾ってもらいます。エンディングノートに書きくわえておかなくては。でも、まだ十年や二十年は大丈夫みたい。上げ膳据え膳で食事をさせてもらうって、こんなに良いものだとは知らなかったわ。それに陶芸の先生が素敵な人でね。ちょっとクラーク・ゲーブルに似ているのよ」
ピンクのブラウスに同色の口紅を薄く差した喜代の頬が桜色に染まった。
3章 終了