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デンマーク🇩🇰視察旅行記(7/n)
久々のデンマーク視察旅行記です。今回は、このツアーで最も興味のあったフォルケスコーレと森のようちえんを見学しました。
フォルケスコーレ見学
フォルケスコーレとは、デンマークの義務教育レベルの教育機関であり、日本でいうと小中学校にあたります。
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https://www.instagram.com/explore/locations/364642214/rodby-skole/
wikipediaによると「フォルケスコーレ法令(Folkskole Act)では、「フォルケスコーレは、生徒が民主主義社会の一員としての役割を全う出来るよう、教育すること」と定めている。」とのこと。ちなみに日本の教育基本法の前文には「たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願う」と書いてあるそうです。(ええやん)
記憶が正しいか微妙ですが、以下のような特徴があるそうです。
宿題がない
学習指導要綱がない
教科書がない
先生が教科書を選んで、先生がカリキュラムをつくる
最終的には、7つのレベルの成績がつく
先生が大変!と思いましたが、先生のやりがいがめっちゃありそうですね。(わたしは大学で教職課程を途中で挫折したのですが、ここまで独自性が認められるのであれば頑張れたかも?!)
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1週間に1つのアルファベットをじっくり学んでいるそうで、この日は「T」でした。
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椅子が高い?!
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どのクラスも黒板ではなく、モニタとPCで授業
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自由とはすなわち選択
デンマークを始め北欧の学校では、宿題ない、塾ない、受験ない、といった「自由な環境!」という情報が先行していますが、フォルケスコーレを卒業して高等教育・大学へ進む際には、先ほどの7つのレベルの成績によって選択肢が変わってくるとのこと。例えば弁護士や医者になるための高等教育機関に行くためには、上位のレベルの成績を取る必要がある、という感じです。そのため「自由な環境だけど、普通に成績も大切」です。
しかし、成績は自分の人生の選択をするための大きな要素ではありますが、小中学校・高等学校・大学時代の成績だけ、そのタイミングだけで人生が決まってしまうことはありません。
なぜならデンマークではどのタイミングでも学び直しをすることができるからです。学習スピードが10代後半になって上がる場合もあるでしょうし、大学生や社会人になってみたら、「◯◯やってみたい」と思うこともあるでしょう。そういった時に学べる受け皿としての学校が用意されており、しかも無料で教育を受けることができるのがデンマークのすごいところです。
デンマーク教育は、ただ単に「生徒にお任せっきりの自由放任」ではなく、「民主主義社会の一員としての役割を全うできるような制度」であり、その役割を生徒(というか国民)が選択できることが素晴らしいのだと思います。(わたしの解釈ですが、結果として国民が安心して生活でき、仕事に打ち込める、という状況を作り上げていると思います。)
森のようちえん見学
デンマークの森のようちえん(Skovbørnehave)とは、自然の中での遊びや学びを重視する幼児教育の一形態で、デンマークをはじめとする北欧諸国で広く普及しています。日本でも「森のようちえん全国ネットワーク」と言う団体があります。
森のようちえんというと、自然環境の中でのびのびと遊んでいる、と言うイメージがありましたが、想像の10倍ぐらい自然の中でした😅
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体験とはスポットではなくコンテクスト
日本でも、子どもの体験価値やその体験価値の格差、などが話題に上がり、大人も含めて「様々な体験」が商品化され購入することが出来ます。無人島体験、座禅体験、職業体験、など。
しかし今回の森のようちえんを見学してみて、平日6時間、月曜日〜金曜日だけこの様な生活をしてても、同じ体験にはならないだろうなと思いました。家に帰ったら親になんでもやってもらったり、親が自然と触れ合ったことがないと言う状況では、子どもは森のようちえんでの体験を共有できないし、その体験を元にした成長のイメージが持てないのではないでしょうか。
森のようちえんでの自由な生活をした後で、フォルケスコーレに進み自分の成績を踏まえて自らの進路を選択肢、大人になったらその選択に責任を持ちつつ、どのタイミングでも学び直しのチャンスがある、そのようなコンテクストがあるからこの体験が生きてくるのでしょう。
自尊心が育まれることによる安心感
今回のツアーでよく出てきたキーワードに「自尊心」というのがあります。自尊心とはwikiによると、
自尊心(じそんしん)とは、心理学的には自己に対して一般化された肯定的な態度である。英語のままセルフ・エスティーム(英: self-esteem)とも呼ばれる。
ここでは社会心理学における自己の概念に関して、育み維持される自己評価や、あるいは「ありのままの自己を尊重し受け入れる」態度とする。
自尊心とは、他人からの評価ではなく、自分が自分をどう思うか、感じるかである。つまり、一時的に快感を与える、知識・技術・財産・容姿・結婚・慈善行為や性的な征服から生まれるものではなく、言い換えれば、外に求めることでも、人に与える印象でもない。競争でも比較でもなく、自尊心の重要な原因は自分とも他人とも戦っていない状態である。
ここでは心理学的な態度としていますが、哲学的にはハイデガーの現存在やニーチェの実存につながる考え方で、「自分」という存在を認識する方法になります。自尊心は「外部に全く影響されずに、自分で自分を受け入れること」と言えるでしょう。
一方で、デンマークではこちらのnoteでも書いたように、「他者を尊重した他者との対話」を大事にするという特徴があります。政治や日々の生活の中でも他者との対話を諦めず、他者と徹底的に関わり合うことが文化になっています。
一見すると「自尊心」と「対話」は相対する内容に見えてしまいますが、両方揃うからこそ「お互いを尊重した対話をすることができ、しかも最終的には自分で自分を尊重し受け入れることができる」のでしょう。
「フラット」再考
ここで改めて考えたいなと思ったのは「フラットな関係性」という言葉です。よくワークショップや組織論の中でも、風通しが良く、対話を醸成するためには「フラットな関係性が重要」と言われますが、なんとなく引っかかりを感じていました。
ここで言うフラットは「平等」ではなく、「お互いが自尊心を担保した状態」であり、そこには能力差はもちろん、体格差や、置かれている状況の違いなどが当然存在し、それを自分自身が受け入れている(自分で自分を受け入れている)ことが必要なのだと考えています。(その上で相手を受け入れられるかは、その後の話で良い気がする。)
個人的には「自尊心が担保された環境で、個人と個人の間に差がある状態」が、安心安全な対話を生み出すのではないかと思います。