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贈与について

修士論文のテーマでもある地域通貨を調べていくと、いたるところで出てくる「贈与」。今回はこの「贈与」についていくつかの本をピックアップしてして整理したいと思います。


贈与とは

贈与という言葉のイメージやその文字から考えると、贈与とは「誰かが誰かに、見返りを期待せずに、モノを贈ること」と言えるのではないでしょうか。いつものようにChatGPTに聞いてみましょう。

贈与とは、何らかの財産や物品、サービスなどを無償で他者に与える行為を指します。贈与は法律的な概念としても存在し、日本の民法においては、贈与契約が成立するためには、贈与者(与える側)と受贈者(受け取る側)の合意が必要です。贈与は、相手に対する感謝の気持ちや敬意、愛情などの表現として行われることが多く、特定の目的を持たない場合もありますが、特定の意図をもって行われることもあります

ChatGPT(太字は倉林)

なるほど、日本においては法律でも定義されており、送る側・受ける側の合意が必要なんですね。また、特定の意図がある場合・ない場合があるそうで、社会生活において「特定の意図を持たない場合」の方が想像がつきませんでした。

具体的には、親から子への資産の贈与や、お世話になっているあの人へのお歳暮・お中元、旅行に行ったときのお土産、などが一般的に思いつく贈与のイメージではないでしょうか。

マルセル・モース「贈与論」における贈与

一方、マルセル・モースは「送る・受け取る・返す」を基本にしつつ、受け取った側に返す義務が発生するのが贈与だと言っています。そして送る側と送られる側は、その贈与を通して関係性を構築しています。

私たちが一般的に考える「贈与」とは異なり、マルセル・モースの扱う「贈与」の特徴は、交換し契約を交わす義務を追うのは個人ではなく集団であること、贈与の対象は「役に立つ」ものだけではなく礼儀や軍事活動なども含まれること、そして贈与は永続的な流通でありその中の一部であること、が挙げられます。

これらはオーストラリアの部族や北アメリカの諸部族で見られ、アメリカの学者は特にそれらを「ポトラッチ(potlatch)」と呼びます。私たちも小規模のセミナーやコミュニティの集まりなどで「各自がお菓子などを持ち寄る懇親会」をポトラッチと呼ぶことがありますが、それと同じです。

私たちはプレゼントや年賀状をもらったときに「恐縮感」を覚えますが、この「贈与」ではそれとは異なり、「贈り物を与える義務」「贈り物を受け取る義務」「お返しをする義務」の3つの義務によって突き動かされることになります。

近内悠太「世界は贈与でできている」における贈与

近内は「世界は贈与でできている」で、「贈与は差出人に倫理を要求し、受取人に知性を要求する」と言っています。

これは、贈与は受け取ることが先(=過去)にあってその時には気づかないかもしれないがある時点で「自分は贈与を受けていた」ということに気づき(=知性)、受け取った人が未来に受け取ってくれるかもしれない人に対して贈与をする、これを倫理と表現しています。

そして「贈与」は市場経済のすきまにあり、等価交換ではなく「受け取りすぎてしまった交換」に対して感じる負担感であると言っています。その負担感が次の贈与を生み出すと。

ここで私が指摘しておきたいのは、この「贈与」の仕組みがあくまでも「個人と個人に閉じている」ということです。「等価交換を前提にしていたが、それより多くもらったようだから贈与しよう」という考え方であり、あくまでも等価交換がベースにあります。個人的にこれは「資本主義における等価交換の一種」にとどまってしまうのではないかと考えています。

荒谷大輔「贈与経済2.0」における贈与

では、2024年に出版された「贈与経済2.0」はどうでしょうか。荒谷は、これまで見てきた「贈与」の形式では、現時点の資本主義のオルタナティブにはなり得ないと言っています。つまり「贈与」は、関係性を固定化・永続させることから、現代には合わないという指摘です。

「貨幣を手段として交換を行う資本主義」によって「贈与」における「負債感」は解消され、人々を贈与経済の束縛から開放しました。では贈与経済は本当に資本主義のオルタナティブになり得ないのでしょうか。荒谷は「負債感の元をたどり、負債感になる手前のモヤモヤ」に焦点を当てた贈与経済2.0を提唱しています。

贈与によって生まれる負債感は「社会関係」であり、この社会関係が生まれるきっかけとなった「出来事としての贈与」まで遡り、この段階で記録するということを提案しています。この記録をブロックチェーンを使って、個々人が持つウォレットで行うということです。この記録は「社会関係」にはまだなっておらず、平たく言うと「ありがとう」の状態で保存されます。これを将来何らかの形で使えるようになれば、贈与の負債感を感じずに、しかも贈与の社会関係に束縛されずに、贈与が行われるのではないかと言っています。

ここでも個人的に感じるのは「この贈与2.0の仕組みも個人と個人の取引に閉じている」ということです。贈与経済2.0の仕組みであれば、資本主義の市場では取引されないサービスやモノを取引できるかもしれませんが(しかも単なる無償奉仕ではなく取引できるかもしれませんが)、それはあくまでも個人と個人の取引であり、その取引に参加できない人は贈与経済2.0においても経済活動に参加できないことになります。なんかもうひと工夫ほしいところです。

ヒントは地域通貨にあるのではないか

ここまでいくつかの「贈与」を見てきましたが、「対象が集団である贈与は社会関係としての束縛が強すぎ」ますし、逆に「対象が個人である贈与は結局資本主義的な等価交換がベースになっている」気がして、どうしても資本主義のオルタナティブになるのは難しそうです。

ここで資本主義のオルタナティブとしての地域通貨を参照し、地域通貨の分類を見ながらその効果を考えてみたいと思います。

地域通貨の分類(松尾 匡 「地域「通貨」の二大目的間の矛盾と対策」より倉林作成)

ここで「公共貢献型」は、個人と個人の取引をベースにしておらず間に公共財が挟まるイメージです。つまり「個人と個人の関係性」ではなく「個人と公共財との関係性」が生まれるイメージです。具体的には、自分の住んでいる街の公園をキレイにしたい気持ちと公園に行って憩う時間という関係です。
これは贈与における「社会関係としての束縛」を緩和してくれるのではないでしょうか。

次に「相互援助型」は、法定通貨を介さない取引で、LETSと呼ばれる通帳型地域通貨によって、市場取引されないような財を個人と個人の間でやり取りすることができます。法定通貨を介さないのでそもそも「等価交換」を目指しておらず、需要と供給がマッチすればそこに価値交換の手段は不要であるという考え方です。

この公共貢献型と相互援助型はそれぞれ贈与経済における課題をひとつづつクリアしています。ということはこれを合体させたら、贈与経済経済の課題をクリアして、資本主義のオルタナティブになり得るのでは?!

しかし前述の松尾は「この2つの仕組みは通貨としての制約が異なるため、一緒にしようとすると矛盾が生じてしまう」と言っています。

私の研究もここがフォーカスポイントであり、この価値交換の方法を面白い形で発見できたら良さそうです!

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