ラジオと私
ラジオとの距離感は実は難しいところがあって、付かず離れずくらいが良いと思うしそのくらいの付合い方を保てるように心掛けている。
中学生の頃小さなオーディオで夜な夜な文化放送の深夜番組を聞いていた私は布団に入ってからの時間が楽しく、その頃すでに音楽に対して特別な感情を抱いていたので、CMで流れる数寄屋橋ハンターにいつか行ってみたい!と胸を踊らせていた。メインパーソナリティー他、時間ごとの番組の担当パーソナリティーの誰もが自分の大切な存在であった。
そして、突然番組の終了が告げられる。
習慣となっている(そしてそれに愛着が沸いている)物事が自分の手の打ちようがない所で簡単に消滅するという現実に、ひどく傷ついた。し、傷ついている自分にも戸惑った。ラジオごときで何故ここまで悲しくなっているんだ私は…と。
それ以来ラジオに対して消極的になったきらいがある。エアチェックの為とか好きなミュージシャンが出るとき以外、すなわち習慣的には聞いてない気がする。ひとつの番組を除いて。
仕事中厨房で流れていたラジオは毎日聞いていたけれど自分に選択権があって望んでかけている、という訳ではないので依存度も低い。まあそのくらいの距離感がちょうど良いと思っていた。たまに、好きな時間帯の番組が終わってしまうとさびしくは思ったけど。
長年そんな感じだったが2011年の震災以降、ラジオに対する考え方が変わったというか、防災用に持っていようと小さなラジオを買い、その頃は一日のうち早朝の何時間かを一人で小さな工房でお菓子を仕込むという仕事だったので、何となく買ったラジオを適当に流してみた。
そしてそれがバラカンモーニングとの出会いである。
商業宣伝音楽がひっきりなしに繰り返しかかる大手ラジオ局に辟易していたわたしにとって、良質な音楽しかかからないインターFMは直ぐに日常の大切な習慣になった。
そしてバラカンモーニング。夢中になって毎日のようにリクエストのメールを出した。打率は低かったけれどそこそこ採用された。採用される為に番組に合わせてだいたい70年代のロックやソウルをリクエストしていたが。バラカンさんは本名で出したものしか採用しない為、知り合いの名前も何度か聞いておかしかった。知り合いも私の名前と私のリクエストした曲を聴いているのだろうかと思ったら、くつぐったい気分になった。
そして、またも番組終了。バラカンさんの、原発の問題への言及と政治批判が良くなかったらしい。それって… と、怒りと喪失感に溢れ、しばらくラジオ嫌になって聴いてなかった。ら、しばくしてバラカンモーニング復活した。が、また終了してしまった。
最後の放送でのバラカンさんの言葉に詰まった挨拶が忘れられない。
そのあと寂しくてバラカンビートやウィークエンドサンシャインなど聴いていたけど、惰性というか気持ちそぞろだった感じ。バラカンさんのテンションも暗くて(番組の特色故かもだけど)それも辛かった。
そして…またラジオから距離を保ってはや何年のこの頃、Spotifyでポッドキャストが色々聴ける機能があることを知った。
ポッドキャストの良い所は番組中にCMが流れないこと、ネットで簡単に(ラジコよりも手数が少なく)探して聴ける、エピソードが選べる、音楽がかからないことで単純に情報収集、インプットの為のコンテンツとしてはとても効率が良いと思う。
次はポッドキャストについて書こうと思う。