発することが'全て'ではない
最近ある友人にまた同じことを言われた。
私は人生で何度も同じ言葉をかけられて
それなのに凝りもせず同じ事を繰り返す。
誰しも経験があると思うのだけれど
悪意があるのか無いのか嫌味を言われたり
マウントというものを取られたり
酷い時はいじめではないのかな、と思うことに発展することもある。
私は昔から誰かに「SOS」を出すことが
苦手だった。
どんな時でも私に明らかな悪意を持って接してくる人を突き放したりする事も苦手だった。
その'弱さ'に嫌気がさすこともある。
はるかはるか昔の話。
もう10年以上前の話なんだけど。
ずっと私に対して
傷つく言葉を発してくる子がいた。
私はその言葉を真正面から受けて
毎日傷ついていたのだけれど。
普通はそういうことがあると人間は離れるという選択肢を取る。
私は'普通'ではないのでその選択肢を取らずに
毎日毎日言葉を受け止めていた。
友人たちに
「凄く優しくて良い子なんだよ」
と褒めてみたりした。
友人たちは私が凄い勢いで褒めるものだから
「とても仲が良いんだね」と言った。
私の心は
「あぁ、違う違う。
本当はこの場から連れ出してほしかったのに。」と叫んでいた。
友人たちのなかでも'親友'と呼べる子だけに
ついにSOSを出した時があった。
彼女は元から大きな目をさらに大きくして
「女優を目指しているだけあって芝居が上手い」と言葉をこぼした。
褒められて、「えへへ」と言いながら
私が喜んでいたら
急に目に涙を溜めて
「辛かったね」と声を掛けてくれた。
このように
話していることが'真実'ではないことがたくさんある。
私は誰かの話を聞く時に
'もしかしたら…'を想像してしまう。
そうすることで気持ちに寄り添えると思うからだ。
そして私は今でも同じことを繰り返している。
「人生損してるね」
と言われるけど誰かを非難するより
よっぽどマシだと思うからだ。
吃驚するかもしれませんが
過去に私をいじめてきた人でさえ
私は褒めるのだ。
いじめてきた人もいじめがいがないなって感じるかもしれません。
安心してください、心はしっかり傷ついています。
だけど、でも、例えば
私がそれを発信することで
誰がハッピーになるのだろうか。
そしてもしその人の人生が変わってしまったらどうしよう、とさえ考えてしまう。
これを'優しさ'とは呼ばないかもしれない。
だけど、私は、偽りとかそんなんじゃなくて
本当に優しい人になりたい、と
どこかでそう思ってる。
こういうところがダメなんだなあ、と
呆れているけれど。
「辛かったね」と言ってくれた友人は
あれから全てのことに気付いてくれた。
今も連絡を取る度に
「本当はこうなんでしょ?」と
私の核心に迫って私を温めてくれるの。
'わかってくれる人が1人でもいればいい'
とよく言うけれどこういうことなんだと
私は思いました。
あ、ちなみに私は勘が鋭い方です。
気付かないふりをするのも優しさのひとつ。
でも、やっぱり、私も人間だから
私のこと好きでいてほしいなあ、と思うんだよ。
発すること全てが'真実'ではない人が
私以外にもたくさんいるでしょう。
気持ちをぶつけた方はスッキリかもしれませんが
ぶつけられた相手もエネルギーを使うんだと
理解していかなければいけないね。
あぁ、この見え隠れする感情が
もっとお芝居で活かせたらなあ。