りんごの赤色さえ満足に書けない

日本語には、というかほぼあらゆる言語にはレトリック、すなわち修辞技法といものがある

これは例えば比喩とか、反復法とか、擬人法とか、まあ今更説明するようなことでもない

とにかくレトリックってのは文章表現を豊かにしてくれるツールみたいなものだ

しかし過ぎたるは及ばざるが如しで、これを多用すると文章は回りくどくなり、読者はめんどくさくなってすぐに飽きる

そんなことはレポートとかレジュメとか書く時に誰でも意識するだろう

表現が多彩なのはいいことだが、読みにくい文章は褒められたものじゃないなんて小学校でも教わることだ(なおこの文章が読み辛いという批判は聞こえないこととする)

なんにせよ一般的な母国語能力を持つ人なら、適切な修辞法の「かげん」ってものを感覚的に知っている

それがどうだろう、こと小説を書くということになると、このレトリックへのストッパーがぶっ飛んでしまうことがしばしばある

「そのりんごは赤い」という文にレトリックを加えていこう

・そのりんごは赤い

・其の林檎は紅い(厨二病)

・そのりんごは夕焼けのように赤い

・そのりんごは黄昏時の夕焼けのように赤い

・そのりんごは大学生の最後の夏に彼女と二人で眺めた黄昏時の地平線からくり抜いてきたみたいに赤い

なんとなく下に行くほど「小説っぽさ」が出るような感覚があるが、やっぱり冷静に考えてみると(あるいは一瞥しただけで)回りくどいと思う

じゃあなんでレトリックマシマシチョモランマのほうが「っぽい」のか

一つには、単純にそういう小説がいっぱいあるからなんだろう

特に翻訳小説は軒並みこんな調子だったりすることも珍しくないが、それは文法的な問題もある

英語なんかだと、形容詞節が長い場合は名詞の後ろから修飾するのが基本だ

だから、だらだらと形容詞節が伸びていっても名詞は最初に示されるので読む時にさほど混乱しない(たぶん)

一方で日本語は形容詞節がどれだけ伸びても名詞の前に置くことをはばからないので、表現が伸びるとどんどん名詞が行方不明になっていって文章全体の構造がわからなくなってしまう(この文法構造はドイツ語なんかでも同じで、やっぱりだらだら修飾部分が続くと意味がとりにくい)

そういう文法上の違いがあるから、逐語訳的な翻訳小説はあんなふうに妙に読みにくくなる

だからといって母国語話者が小説を書く時、翻訳小説みたいにする必要はない

と頭ではわかっているのだけど、どうしてもマスターピース級の小説は海外のものも多くて、そういうのに憧れて育ってきた身としては自然な文体があっちに近づいてしまう

さらには海外文学の影響を強く受けた多くの昔の純文学も、やはり似たようなノリのものが多い気がする

そうして日本人は、普段読んでいる平易な日本語文章では絶対にありえないようなレトリックのクリスマスツリーな文体に「小説っぽさ」を見出してしまうんだろう

ようするに、未だに日本人の中には「文語的表現」という感覚があるのだ

ぼくの場合はそうでした

べつにそうした文体が悪なわけじゃない

ただ、江戸時代の候文なんて読みたくないように、そういう書き方をする場合には「こんなものは読めないし読む気にもならない」って一定数の人々に言われてしまうことは覚悟しなきゃならないんだよね

少なくとも現代のニーズに文語的な小説はあっていないのだろう

いやあ、難しい、小説を書くのって……

おわり

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