モスクワ川のほとり、星の果て

『ロシアにおけるアルファ・ケンタウリ星人』(2019年2月32日発行・寒咲希著・異星史出版社)129-130頁より抜粋

 ロシア皇女アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァがアルファ・ケンタウリ星人を名乗る男と出会ったのは、小鳥のさえずるロシアの短い初夏の日だったとされている。
 その日は母・アレクサンドラの誕生日の前日で、当時12歳だったアナスタシアはモスクワの宮殿の近くの公園で花を摘んでいた。カミツレ、あるいはカモミール、ロシア語ではロマーシカと呼ばれる白い花をいっぱいに抱えた彼女は、当然ロシア皇帝直属のいかめしい親衛隊たちに囲まれていたわけだが、どういうわけかその男はそこに立っていた。アナスタシアの直ぐ側、寄り添うように。長身の彼が横に並ぶと、この小さな皇女殿下は胸のあたりまでしか背が届いていなかった。
「はじめまして、きれいな人」
 男はうやうやしく傅くと、可愛らしいピンクのリボンがあしらわれた皇女の靴の先に口づけをした、とされている。あるいはその雪のような手をとって、そこに口づけをしたという伝承もある。どちらにせよ口づけをしたことは間違いないらしく、男が限りなく紳士的でちょっぴり変態的にも見えたということは共通している。
「まあ、あなた(ヴィ)は私のかわいい臣民ね」
 そう皇女が言ったかどうかは、アルファ・ケンタウリ星人の第一声と同じように、定かではない。そうした人物像はソビエト連邦時代に皇族へのネガティブキャンペーンの一環として形成されたものだと批判する学者も多い。一方でそんなキャンペーンを実施するなら、皇女はパンがないことについてお菓子を食べたほうがいいのではないかというケチくさい提案をしたに違いないという言説があがるべきだという批判もある。それらは概ね大衆の上げるノイズにすぎない。ただ確実なのは、けしてアナスタシアは顔を赤らめてみたり、男の無礼に恐れおののいて近衛兵を怒鳴りちらし呼びつけたりはしなかったということだ。
 彼女は悠然と、皇女たる身にふさわしい仕草と言葉でもってその男に答えたのだ。
 それがロシア宮中内を舞台とした壮大なドロドロとしてバイオレンスな悲劇の始まりである、ということはなかった。まず男はアルファ・ケンタウリ星人であり、基本的に人間の権力支配には興味を示さなかった。そしてアナスタシアもまたこの男を得体の知れない貴族のポストに付けたりとか、まして政治的な助言をするよう父親に紹介したりとか、そんなことはけしてしなかったからだ。
 ただ、どうにもアナスタシアとこのアルファ・ケンタウリ星人を自称する男は歳の離れたロマンスの関係にあったことは、多くのロシア・アルファ・ケンタウリ星人史研究科が認めているところである。とはいえロシア・アルファ・ケンタウリ星人史研究を志すものの9割がアナスタシアとアルファ・ケンタウリ星人のロマンス事情に胸をときめかせた経験があるということで、彼らの作る歴史観がどこまで恣意的に捻じ曲げられているのかは怪しいものがあった。しかし大半の人間はこんな教科書にも乗らないような出来事には興味が無いのでそれが追求されることはない。
 なんにせよ、そんな未来において自分たちが取り沙汰されたりやっぱりされてなかったりすることなど当人たちは知る由もなかったことだろう。もっともアルファ・ケンタウリの本星には時空間並行認識装置があるとのことなので、もしかしたらアルファ・ケンタウリ星人は知っていたかもしれないが、やはり彼はアルファ・ケンタウリ文化圏の出身なのでたいした感慨も抱かなかったはずだとされている。
 そんなことよりもロシア・アルファ・ケンタウリ星人史において最も激論が交わされているのは、どうしてアルファ・ケンタウリ星人は同じアルファ・ケンタウリ星人ではなく地球人であるアナスタシアを見初めたのかという問題であった。
 様々な記録によれば、アナスタシアはその男の前ではいつも白い服を着ていた(ロシアの寒風をしのぐためのコートでさえ、そうだった)。上質なシルクの洋服と彼女の赤みがかかった金色の髪がそろって風にそよぐ光景、それより優れた芸術はアルファ・ケンタウリどころか宇宙の果てから果てまでひっくり返しても見つかりはしないだろうと男は考えた、かもしれない。
 そして二人の落ち合う場所はきまって最初に出会った公園で、その時に限ってはアナスタシアは人払いを欠かさなかった。誰もが反対したが、彼女の透き通った青い瞳を向けられながら屹然と命じられて逆らえる者はいなかった。
 公園におもむいてから先、二人がいつもどこで何をしていたのかについては、確かな記録は存在しない。ただし薄暗がりに決まって湧いて出てくる蛆のような下賤な考えは、およそ事実とは程遠かったことだろう。実際に、アルファ・ケンタウリ星人との予定に向かう時、アナスタシアは恋路に踊らされる娘というよりは、優れた学友と語らう才女の横顔をしていたと、姉のタチアナの日記に残されている。
 一方でアルファ・ケンタウリ星人の方がどんな様子であったのかについての情報は、はっきり言って皆無に等しかった。
 唯一の手掛かりとして、実のところアルファ・ケンタウリ星人の日記なるものが発見されてはいるのだが、困ったことにこれがアルファ・ケンタウリ語で書かれているために寸分も解読されていない。腸捻転を起こしたミミズが不定期に分裂と結合を繰り返したような文字様式は地球上に例がなく、強いて言えば特有の精神疾患を抱えた者が記す字に似ていた。ただ単語の出現頻度的に「アナスタシア」ないし彼女を示す何らかの単語であるらしい記号列だけは確定されている。このほんの微細な手がかりから、一日の記録のうちどれだけアナスタシアについて言及されているかの統計を取り、さらに周囲の記録から確認されているアナスタシア当人の様子と照らし合わせて、おそらくこの日からこの日までは二人は仲違いしていたのだろうとか、この日からこの日までは研究しているこちらの顔が赤くなりそうなほどに熱烈であったらしいとか、そういった方面での研究は進んできているのである……

 (1)

 彼の貸してくれた、潰れた猫みたいな形をした時空間並行認識装置を一通り読み終えると、自分の顔がみるみる赤くなっていくのがわかった。
 未来まで永遠に語り継がれる恋、なんて、お姉さまたちでさえ経験したことのない本当のロマンスが私たちの繋いだ手の中にあるというの? 
 信じられない、鼓動がすごく早くなってる。自分でも気持ち悪いくらいに笑顔になってしまうわ。
「今日は何をしようか」
 でも彼、アルファ・ケンタウリ星人の彼はへっちゃらそうに言う。
 それが頼もしくて、悔しくて、負けた気がして腹が立って、彼の細いお腹に全身で飛び込んで抱きついてやった。「う゛っ」ってうめき声、異星の人なのに身体はとても弱い。
「今日はあなたの故郷のお話を聞かせてよ」
「それはつまり、アルファ・ケンタウリについて?」
「ほかに故郷があるわけでもないでしょ」
 ふむ、とちょっと彼は困った顔をした。困った顔、といっても私は長く彼と一緒にいるからそうわかるだけで、基本的には無表情な人だ。最初は仮面をかぶっているんじゃないかと思ったけど、いつのまにか、ちょっとした感情が浮かんでいるのがわかるようになっていた。
「生まれた星系という意味では、たしかに私の故郷はあそこだ。しかしアルファ・ケンタウリ星で生まれたものはそこで暮らすことはないんだよ。なぜなら人が暮らせるほどには十分な土地がないからだ。そこに住める人数は300人までと決まっていて、毎年新しい子供が生まれるものだから、生後一年でみな他所の星へ行かなくてはならない」
「嘘でしょう、本当に?」
「嘘はつかない。そして私たちは何もない宇宙に放り出されて、身一つで生きる術を学ぶ。宇宙船はあるけどね。母星で学ぶのは共通言語と呼吸をする方法、宇宙船に乗って星から星へ歩く術だけだ」
「生後一年までにそれを学ぶなんて無理よ、どんなに優秀な子だってできっこない」
「アルファ・ケンタウリでの1年は地球でいう15年程度だからね」
「あら、そうなの」
 彼の話はいつもこんな調子。やっぱりそれって冗談でしょって問い詰めても、いつもの優しい顔でにっこり笑うだけ。そもそもこの人が本当にアルファ・ケンタウリ星人なのかなって思う時もある。ときどきアルファ・ケンタウリの技術を使ったっていうへんてこな装置を見せてくれたりもするけど、へんてこすぎて何の証拠にもなってない。お姉さまたちは、彼はきっと病院から抜け出てきた恐ろしい患者に違いないって言う。でも、それがどうしていけないの? 私は彼を愛しているし、彼も私を愛している。それの何がいけないものですか。
「じゃあその300人の中にはあなたのお友達もいるのね。もしかしたらガールフレンドだっていたんじゃないのかしら」
 それで、また、試すような嫌味を言ってしまう。けど私だっていつも彼の難解な言葉に付き合っているんだから、まあこれくらいは我慢してもらいましょう。
「どうかな。みんなもうアルファ・ケンタウリに戻ってしまったんじゃないかな」
「戻った? 300人までしか暮らせないんでしょう?」
「うん。星々を渡った私たちの仲間は、宇宙のあちこちからたくさんの情報素体を集めてくると、やがてそれを母星に還元してしまうんだ」
「えと、ごめん、私にわかるように言って。情報素体ってなに?」
「アルファ・ケンタウリには存在しないあらゆるもの。白鳥座が落とした白い羽、ブラックホールの中央で圧縮された時間結晶、なんでもかんでも情報を吸着する薄紫色のもこもこ、とか」
「もこもこねえ……」
 前に私たち皇族に取り入ろうとして年老いた霊媒師が唱えていた呪文よりも理解できない。でもそんなことはしょっちゅうだから、こういう時は我慢強く彼の言葉に耳を傾けるべきだって知っている。でもずっと公園で座っていると体が凍えそう。
「街へ行きましょうよ。温かいものを食べたいわ」
「そうしようか」
 薄氷の浮かぶモスクワ川のほとりを並んで歩く。お父様は、首都でも反皇帝主義者や共産主義者が増えているから外出はやめろって言うけれど、フードとスツールで顔を隠しているからたとえ誰かとすれ違っても平気だった。それにいざという時はアルファ・ケンタウリの技術が私を守ってくれる、ということはなさそうだけど。
 基本的にアルファ・ケンタウリ星人は争いを好まない、だから武器もほとんど作ってこなかったんだって彼から聞いている。護身用の小さな拳銃を見せたときにさえ、まるでうじゃうじゃの棘虫を近づけられたみたいに嫌な顔をしていた。こんなに争いばかりの星は珍しいって言ったときの彼の、滅多に見せない悲しい瞳、私は今でも忘れられない。
「スープを売っているみたいだ。買ってこようか」
「一緒に行きましょう。私を一人にしちゃだめよ」
「じゃあ、一緒に行こう」
「もちろん」
 モスクワの街はお昼時で、普段よりも温かくて風も無い日なのもあって、楽し気な賑わいを見せていた。もちろんそこに私たちが紛れても誰も気が付かない。それどころか何人かの人は、私たちを若いカップルだと見込んで楽し気に、あるいはいたずら半分に囃し立てさえした。あの人たちに私の身分を教えてあげたらどんな顔をするのかしら、なんてちょっと考えてしまうこともある。
 そのまま少し歩くと、街の広場で旅の楽団がバラライカなんかをかき鳴らしているのに出くわした。私たちはその人だかりに加わって、さっき買ったスープを少しずつ飲む。味は薄い。でもたまに出くわす干し魚の塩味がうれしかった。宮殿で出されるものとは比べるべくもないけれど、寒空の下、愛する人といっしょに飲むスープはとても素敵な味がする。
「あのトレショートカを鳴らしている男の人、ちょっと下手だわ」
「私にはとても楽しげに聞こえるよ」
「でも、ほら、リズムがちぐはぐだもの」
「君は耳がいいんだね」
「ずっとこの国で暮らしていれば、誰だって下手だと思うわよ」
「そうなのかい。でもね、アナスタシア。音楽をたしなむ星はとても少ない。それを楽しむことができるだけで、私には素晴らしいことに思えるよ」
「それ本当?」
「嘘はつかない。そもそも住人の聴覚器官が音階を聞き分けられるほどに発達していない星だって多いし、逆に発達しすぎていても音の律動に耐えられなくなるからやっぱり音楽は生み出されない。その点でいえば地球の人々は奇跡の中で曲を奏でている」
「でも、やっぱりあの人の演奏は下手よ」
「そうかもしれないね」
 本当に、本当にあのトレショートカは下手だった。でも、たしかにとても楽しそう。高揚した見物客の何人かが前に出てきて、音楽に合わせて踊り始めた。もっとやれという声、ひっこめという罵声。みんな顔が赤い。ウォッカに酔っているみたいで、歌も踊りもめちゃくちゃ。
「みんな楽しそう。ねえ、音楽がない星の人たちはやっぱり踊ることも知らないの?」
「少なくとも音楽に合わせて踊ることはない。ただ、音楽がないからこその表現として舞踊という選択がされることもある」
「音楽もないのに踊れないでしょう」
「あらゆる生物は特有のリズムを持っている。人間なら、心臓の鼓動というように。アナスタシアの鼓動はいつも少し早いね」
「それは、あなたに会っているからだと思うけど」
「ならそれが君と私のリズムということだ」
 こういうこと、惜しげもなく言ってしまう私もどうかと思うけど、やっぱり彼も彼だわ。
 それから私たちは言葉を交わさなくなった。スープが底をつくまでは黙って音楽と踊りを眺めていたけれど、それもやがてお開きになると、またもと来たモスクワ川のほとりを歩いて公園へと戻った。
 ところで彼は、いつも私が訪れるよりも早くこの公園に来ている。必ず。前に明け方からじっと公園の茂みで張り込んでみようと思い立って、守衛達の目を盗んで宮殿を出てきたことがあったけれど、その時も彼は公園でもう待っていた。それでせめて背後から大声と共に現れてみたけど、やっぱりなんてことはないように彼は微笑んだだけ。
 逆に、私が帰る時は必ずこの公園に留まって手も振らずに見送ってくれる。いつまでも、時には夕日を背にして、時には雪の降る中で。ある日に私は今度こそと思い立って、帰ったふりをして脇道の家と家の隙間から彼のことをじっと監視していたことがあるけれど、彼はいつまでも私を見送った場所で立ったまま変わらなかった。逆に私のほうが耐えきれずに眠ってしまって、それから一週間は外出を禁じられる始末。
 じゃあ、彼は公園に住んでいるのかしら? それで、何か破滅的なことがおこるんじゃないかって思いつつも、メイドたちに丸一日かけて公園中探させたことがあった。でも、彼の姿はもちろん、一人の人間が暮らしているような痕跡は何もなかったですと、メイド長は恨めしそうな顔を私に向けて言った。
「あなたはどこから来たの?」
 私は問う。でも答えはいつも決まっていて
「アルファ・ケンタウリから」
 そればっかりだもの。

(続く)

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