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ゴジラ-1.0 愛と幻想の昭和
シン・ゴジラはそれなりに興味深く見た。しかし、なんとなく引っかかったのは理系の技術者、官僚からみた世界のみをきちんと描いている点だった。逃げ惑う民間人とか、自衛隊の描写などは極力省かれている。私は「ああ、あの10式戦車の戦車長、だいじょうぶだったのかな。鎧袖一触で悔しかろうな」とかしょうもないことを考えていた。
変わり者の理系技術者たちを活かして対ゴジラ戦略を練る有能な官僚たち。ゴジラは無表情に歩き自己崩壊を防ぐために放射熱線を吐くだけの科学的存在である。それがクールであると絶賛された。特に理系の人たちはこの作品に快哉を叫ばない人はいないだろう。周囲もそうであった。ゴジラの理論はさっぱりわからなかった。進化を内包してるってカエルとどう違うんだ? エリート官僚や天才技術者に感情移入できる基本、頭のいい人向けの映画なんだろうな、頭のわるい私はいままでの怪獣映画でいいもん、と飲み屋でこれぞSFだ!まともな政治だ!と興奮して語り合っている知人たちをみて、妙に淋しくおもった記憶がある。
無理もない。シンゴジラこそ、東日本大震災、福島原発事故の「仮想戦記」だからだ。理系できちっとした効率的な有能な官僚による体制が構築され、愚かな文民政治家が邪魔しなかったら日本は、こうならなかった、という仮想の勝利を描いているからだ。(だからゴジラの熱線で総理大臣以下は抹殺される。あまりに感情の無い、この作品の中で唯一、感情らしい感情を感じる。無能な老害、文民政治家に対する過剰なまでの憎悪)とりもなおさず、このゴジラは原発事故のメタファーに他ならない。日本は有能な官僚の指揮下、科学力でこれに勝つ。打倒し封印する。日は復た昇る。現実はあやまりである。有能な官僚に率いられた科学技術帝国日本はこうあるべきなのだ。熱狂しないわけがない。
しかし、同時にこの物語はどこでも通用する。舞台がアメリカでも中華人民共和国でも成立する。無邪気過ぎるほどの科学技術、有能なシン体制賛歌は、東日本大震災を扱っていながら脱歴史、脱国籍なのだ。
翻ってゴジラ-1.0はコテコテの昭和である。特に掃海艇の秋津艇長は、まるで講談調の人物で、オーバーに戯画化された昭和の元軍人として描いている。恐れ入谷の鬼子母神ってなかなか言わないとおもうが。戦争で活躍したかったと軽々しく語る水島も、いかにも技術者といった野田も、すべてがちょっと大袈裟で、昭和映画のような空気感が満載だ。すこしだけ偽物感がある。まるで昭和。丸出し昭和。一人異彩を放つのが主人公、敷島元少尉。特攻からもゴジラからも逃げ出した男。特攻から逃げたのも理由が判然としない。反戦でも、自分の価値を高く見積もる(我レイテに死せず、という本がある。連合艦隊が壊滅した以上、決戦ができない、軍の命令が無茶苦茶ならば従う道理もなし、自分の軍人としての役割は終わった、米ソの対決になるか次の世界を見てみたい、と結論し、すすんでアメリカの捕虜となったインテリもいた)、素封家で親孝行を優先したというわけでもない、命惜しみの恐怖と言う割には図々しくもない。衝動的に逃げてそれを引きずる。なんとなく煮え切らない、覚悟の無い、荒っぽさの欠片も無い、お育ちのいい、令和の若者が昭和に異世界転生してきたかのような有様。そんな根無し草な敷島元少尉は、仕方ないで生きている感じなのだが、戦災孤児の明子と明子を拾った典子に居着かれ、PTSDに悩まされつつ、敷島は掃海任務に就いて生活を立て直していく。
しかし、戦後の復興と共に生まれたささやかな幸せを許さない。ゴジラが出現、新しい平和と幸福の象徴、銀座を蹂躙する。大戦の生き残り、かつての日本の誇り、重巡洋艦高雄も、投入されなかった四式中戦車などの戦車部隊も無惨に撃滅される。ゴジラは暴れる。憎悪を剥き出しで暴れる。何にそんなに怒り狂っているのかわからないのが恐怖を感じる。ゴジラはメタファー。初代が原爆のメタファーであり、GMKにおいてゴジラは祟り神で「忘れられた戦争」のメタファーである。このゴジラのメタファーはなんであろうか。
銀座が襲われ典子を失い、はじめて、敷島はゴジラに向き合う。わざわざ悪評を広めて最高の腕を持つ整備士官橘を呼び寄せる。あれほど特攻を忌避して逃げ回っていた同一人物とは思えない変貌ぶりだ。典子の仇討ちでもなく、取り憑かれた表情をみせる。ある種の狂気。逃げた彼もまた紛れもなく戦争に取り憑かれた人物だった。そう、敷島の奇妙な無気力さも狂気の裏返しで戦争の傷跡なのだ。
この物語は平和のための特攻讃美でもなければ、家族を守るため立ち上がる勇気ある男のリターンマッチではない。戦争に傷つけられた、いや、戦争の傷そのものとなった男のリベンジである。敷島自身がゴジラなのだ。ランボーにも似る、ライ麦畑でつかまえて、なのだ。ゴジラと対決して戦争を終わらせなければならない。戦争そのものとなった自分に決別するために。
最初にゴジラに立ち向かい沈められる重巡洋艦高雄にしろ、敷島の駆る震電、駆逐艦雪風、響などにしろ、フロンガスを使う作戦もオキシジェンデストロイヤーのような超兵器ではない。残り物、有りものを組み合わせて、なんとか乗り切る。作戦を実行するのは旧軍の軍人たちによる民間人部隊、技術者も民間有志たち。誰かが貧乏籤を引かなければならない=誰かがこれをやらねばならぬ。期待の人が俺たちならば~、この物語は「宇宙戦艦ヤマト」でもある。監督の山崎貴はキムタク宇宙戦艦ヤマトも監督した。(評判は悪いが私はあまり嫌いではない)これは必死か、と野田に問う元士官たち。野田は生還を期すことを約束する。「なら戦争の時より随分マシだ」みなが笑う。ここで気づく。この物語は三丁目の夕陽同様、こうである、こうあるべきである、ではない・・・・・・父は祖父は「こうあって欲しかった」という願いの、昭和の、ゼロからはじまる日本の物語。
ゴジラはメタファーである。そう、ゴジラに立ち向かった旧軍軍人たちが古き良き昭和なら、野田のいう「この国は命を粗末にしすぎてきました」・・・・・・国家そのものの、いやもっと言うのならば、目を背けたい負の歴史そのもののメタファーである。だから政府は出てこない。日本人がどうあるか、どうあるべきかだから、在日米軍が、まったく出てこないのは当然の帰結なのだ。古き悪しき昭和的なる国家、ホッブスのいうリヴァイアサンそのもの。ゴジラ=大昭和帝国とその歴史のメタファーであり、国民のささやかな幸せを踏み潰し、私的領域に逃げ込むことを許さない怪物として表現される。だから特攻逃亡兵敷島を執拗に追いかけ回すのだ。
「自分の戦争を終わらせる」決意した敷島は震電に搭乗して自ら逃げ出した特攻に向かう。なぜ、震電か? ゴジラ誘導、攻撃に航空機ファンから邀撃戦闘機の震電を使うのはおかしいのではないか、という問いが投げかけられた。性能的にはそうした面もある。だが、何より震電起用はメタファー的な意味合いが濃い。震電は戦争に投入されなかった。また、B29から本土を防衛するという役割を担う。人々を空襲より守るための兵器ともとれる。汚れ無き未完の希望となる戦闘機、震電。特攻に使われた零戦や隼では駄目なのだ。作品の中のメカは銃であれ架空のロボットであれ、象徴でキャラクターとして機能しなければならない。その実力を発揮できなかった、敷島と同様のキャラとして彼の搭乗機に相応しい。現実的かどうかは二の次。
震電を駆り、敷島は、理不尽な死を多くの人々に強いてきたメタファーとしての異形な国家、ゴジラにはじめて対峙する。生き残った帝国海軍の象徴、雪風と響がゴジラを沈める。復員船になった雪風は未来の象徴である。特攻こそ否定されなければならない。ゴジラは頭部を爆破され、脱出装置が作動し敷島は生還する。脱出装置は奇しくもドイツ製である。(He219やDo335のものだろうか?)
そしてゴジラを葬り去ったのち敬礼する復員軍人たち。戦争は終わった。
典子が生きていることが判明し、敷島は病院に駆けつける。しかしハッピーエンドではない。おそらくは原爆症?(ゴジラ型の痣)にかかっていることが示唆される。再びゴジラに破壊された東京、そして理不尽に死を強要する在り方の国家は・・・・・・まだ残る。ゴジラ映画のパターンである、ゴジラテーマと共にゴジラの心臓は脈動し、まだ生きていることを暗示する。呪縛は続く。ゴジラは日本人を逃がしはしない。歴史や国家から逃げることは決してできない。