神は死んだ。〜ゴールデンカムイを添えて〜
信じるものが欲しかった。
心の支えが欲しかった。
このクソみたいな社会を生きる、寄る辺が欲しい。そこで私は考えた。
そうだ、宗教にハマろうと。
◇
きっかけは、とある宗教の会合の映像だ。みんなして小さな旗を持ち、一心不乱にそれを振りながら喜びの表情を浮かべていた。
皆一様に、いい獲物(♂)を見つけた辺見和雄のように、澄んだ目をして微笑んでいた。
宗教の洗脳映像として、人によっては不気味さすら感じるものだろう。しかし現代社会に疲れた私の目には、まったく違う映り方をした。
えっ……? この人たち、めっちゃ楽しそうじゃん😂羨ま〜!私もみんなと旗振るだけで笑顔になりてえ〜!
心からの素直な感想だった。
かくして私の神を求める旅は始まった。
刺青人皮を求め広大な土地を巡るアシリパさんたちのごとく、見境なく様々なものに触れた。
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教。幸福の科学、創価、南無妙法蓮華経。世界にある数多くの宗教。
日本に根差すアニミズム(精霊信仰)、神道(しんとう)。果ては宇宙の在り方、人間の生きる意味まで、できうる限り知ろうとした。
その上で出した結論はこうだ。
結局のところ、神など実在しない。
もちろんそれは、個々人の神の定義にもよる。が、少なくとも皆が想像するような、博愛に満ち満ちた救世主などは存在しない。
例えばキリスト教。聖書の一端に触れたことがある者なら誰もが知っているように、神とはかくも残酷な存在だ。
何故なら、人間を一番手にかけているのは、他ならぬ神なのだ。
ノアの箱舟で知られる大洪水も、終末と呼ばれる人間大量虐殺の予言も、この聖書の神によるもの。
老人ヨブという題で知られる話では、神は自らへの信仰心を試すため、敬虔な信者であるヨブを残酷な方法で追い詰めたりもする。
マジで邪神………ウェンカムイだろコイツ。
さて、ここまでの話に出てきた神は、名をヤハウェという。天地を創造した、偉大なる神。唯一無二の神。
ユダヤ教ではアドナイ、イスラム教ではアッラーとも呼ばれている。ヤハウェ、アドナイ、アッラーは全て同じ神を指しているのだ。
これらの宗教は、同じ神を信仰しているのに……いや、信仰していたからこそ、聖地エルサレムを巡り争っていた歴史がある。
ヨブへの仕打ちを見るに、この邪神が人間を争わせて楽しんでいた説がにわかに真実味を帯びてくる。
と、そんな暴論はさておき。このロクでもない唯一神ヤハウェは、かの有名なイエス・キリストの父でもある。
キリスト教といえば、思い浮かべるのは父ヤハウェでなく、イエス・キリストという人も多いだろう。
「右のほほを殴られたら左も差し出しなさい」などの名言で知られる、博愛に満ちた救世主。
けれど待って欲しい。
イエスはイエスで理不尽の塊だ。自分が食べたい時に実を成らせていなかった、という理由でイチジクの木を呪い、枯らしてしまう。
「俺さー、イチジクの実が食べたいんだよね。今すぐ食べさせて?」
「ひいっ………すみません、すみません、イエス様。私、季節外れなもので今は実が成りませんで………」
「はあ〜〜?? チッ、マジつっかえねえ。空気読めよ。救世主ぞ? 我、救世主ぞ?」
ヤクザのドラ息子かよ。
ひたすらイチジクが可哀想。まあ父がアレだし仕方ないね………としか。
何をどうして、こんな奴らが世界最大の宗教となり、崇め奉られているのか。鶴見中尉かコイツらか選べと言われたら、私は迷いなく鶴見中尉を選ぶ。
鶴見教を世に広めて、ヨシヨシペロペロしてもらうんだッ!!
そんな訳で、私はかの有名な父と息子に暖かな博愛を見いだせず、キリスト教を信仰することを早々に諦めた。
ここで注釈※キリスト教は「父ヤハウェ、息子イエス、その手下の天使たち」をひとまとめにして「神」と呼んでいる。よく聞く「三位一体」とはこのこと。三つまとめて神。
◇
キリスト教はダメだった。なら他の宗教は?と色々調べてみたものの、どれもこれもロクでもないなあ、というのが正直な感想だ。
洗脳、侵略、戦争、権力。
それが宗教の本質だと思った。
そんな神など信じたくもない。
しかしひとつだけ、異質な宗教があった。仏教だ。
今まで「ブッダ様を信仰したら極楽へ連れて行ってくれる」みたいなイメージを抱いていたが、実際は全く違った。
調べていくうちに、仏教は宗教ではない、と感じた。
なら仏教とは何か?
それは、学問である。
ブッダという人の言葉を元に、素晴らしい考え方だと、自らの価値観を広げるためのもの。
仏教というと、浄土真宗など様々な宗派があるる。しかしそれらは、原初のブッダの教えを元に派生したもの。原典と異なる部分が多数ある。
南無阿弥陀仏を唱えれば極楽へ導いてくれる。カルマや輪廻転生すら、ブッダの理念に都合よく脚色した後付けに過ぎない。
つまるところ二次創作なのである。
原作ブッダ、タイトル仏教。
そこから派生した様々な宗派は、二次創作なのである。
ピクシブで見る杉リパ(杉元×アシリパさん)、月鯉(月島軍曹×鯉登少尉)、勇尾(勇作殿×尾形)がどんなに素晴らしく名作であっても、それはゴールデンカムイ本編とは何ら関係の無いもの。
同様に、現代にはびこる仏教系の宗派は、掲げる理念がどんなに素晴らしかろうと、よくできた二次創作に過ぎないのだ。
ブッダの言葉を忠実に残したとされる原典には、定められた戒律も、悟りの定義もない。
そう、自由なのだ。猫ちゃんのようにッ!猫ちゃんのようにッ!!自由なのだ。
仏教とは、ブッダという神に救いを求める宗教ではない。自分の視野を広めるための学問であると、少なくとも私はそう結論づけた。
◇
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教。幸福の科学、創価、南無妙法蓮華経。世界には本当に多くの宗教がある。
けれど私には、そのどれも、どうやら合わないみたいだった。
仏教と出会えたことはよかった。ブッダの価値観に触れることは、他のどの宗教より、よっぽどためになった。
しかし残念ながら、そこに私の求める神はいなかった。
私は何かを信仰したかった。このクソみたいな社会で生きていくため、揺るぎない心を打ち立ててくれる強大な支えが欲しかった。
頑張ったら頑張った分、ヨシヨシペロペロしてくれる神を心の内に欲していた。
江戸貝くぅんにとっての鶴見中尉のような、そんなビックでカリスマでチャーミングな神を求めていたのだ。
そう。宗教はクソだとわかったところで、何一つ救われていないのが現状。だが諦めの悪い私は、不死身の杉元よろしく立ち上がり、再び神を探す道を志した。
次に私が飛び立ったのは、スピリチュアルの領域だった。
◇
スピリチュアルと一口に言っても、様々なものがある。自己啓発のような日常に根ざしたものから、大天使のヒーリング、宇宙との交信、果ては陰謀論など突拍子もないものまで、本当に幅広くある領域だ。
私はなるべく考えが偏らないよう、本、動画、ブログと目に付いたものを片っ端から見ていった。
そこで、ひときわ興味深かったものがある。
ワンネスという概念だ。
いわく、「全ての生命はひとつの意識から生まれた存在」なんだそうだ。
◇
ある時、どこからか意識が生まれた。
ソイツは考えた。
何故、自分は生まれたのか?
自分とは何か?
知りたい――ソイツは考えた。
分身たちを生み出して、ソイツらに色々な経験をして貰えば、自分の正体がどこかでわかるのではないかと。
だからソイツは自分を知るため、多くのものを創り出した。
銀河や惑星、宇宙人、動物、人間。ソイツの創った全てのものは、いずれソイツの元へと帰っていく。
きっと親分と姫もソイツの元へ帰り、共に過ごしているのだ。
全てはソイツ……ひとつの意識から生まれた。みんな元はひとつ、同じ存在なのだから。
スピリチュアルに馴染みのない方は、いまいちピンとこないかもしれないので、例え話をしてみよう。
スライムや粘土を想像してみて欲しい。元はひとつの大きな塊。それを小さくちぎって、色んな場所へ放り投げる。そいつらは勝手に動いて、色んな場所へ行って、そこで得た経験を塊の元へ持ち帰り同化する。そんな感じだ。
まとめよう。つまり私たち含む、宇宙にある全てのものはソイツ――ひとつの意識から分かたれた存在。自分を知りたくて、色んな経験をしてみてたくて、地球に生まれてきたらしい。
◇
この「全てはひとつから生まれた」という考えは、実は日本人にとって馴染み深いものだったりする。
例えば「お地蔵さんの頭を蹴りとばせ」と言われたとして、殆どの人が躊躇うだろうと予想される。お地蔵さんなんて元を辿れば、石を彫り上げただけのものなのに。
他にも「お米には七人の神様がいる」、「長く愛用しているものには付喪神が宿る」など聞いたことがある人が沢山いると思われる。
このように日本には「全てのものに魂が宿っている」という考え方がある。これをアニミズム(精霊信仰)と呼ぶ。
日本は無宗教だといわれているが、キリスト教や他の宗教のように、ただ一人の神を崇めるものではない、というだけだ。
アイヌ民族のカムイよろしく、付喪神、八百万の神など、様々なものに神を見出ている。この日本のアニミズム的な考えを神道(しんとう)と呼ぶらしい。
アレもコレも私と同じ。だから敬意を払い、粗末に扱ってはならない。そういうことだろう。
さて。
ワンネスの概念「全てはひとつの意識から生まれた存在」が本当だとして。
なら、特別な神など存在しない、ということになる。八百万の神も、七福神も、ヤハウェもイエスもマリアも、宇宙人も私たちも、元を辿れば同じ存在なのだから。
結局、私を都合よく救ってくれる神などいないのだ。その事実に気付いた時は落ち込んだ。
……そもそも私は、どうして神を求めていたのか?
クソみたいな社会が嫌になったから。楽しみより労働の苦しみが多すぎて、働きたくない。必死に働いて得る対価の少なさに、やるせなくなる。今より楽に生きたい。暗い気持ちになりたくない。将来ひとりになりたくない。けど恋愛も結婚も嫌、子供も欲しくない。こんな私に生きてる価値があるのかと定期的に絶望する。少しでも明るく生きたい。
理由なんて腐るほどある。
「こんな苦しみを味わうために、私は生まれてきたのか。何のために生まれてきたのか?」
日々疑問はつきなかった。
そんな私への返答が、ワンネスの概念だ。
「私たち人間は自分を知るため、地球へ体験しにやって来た。言うなれば、遊びに来たようなものだ。生まれてきた意味や使命などない」
なんじゃそりゃ。私これ以上苦しみたくないんですけど? はあ……でも生まれてきたからには仕方ないのか。もう遊園地のゲートくぐって、死ぬまで出られないんだもんな。
散々に神を追い求めてきた結論がこれとは、拍子抜けというか、本当なんじゃそりゃと我ながら思うが。でも苦しみから救われたいなら、これ以外ない。
「今生きることを、全力で楽しむしかない」
姉畑支遁は大正解だったということか。彼に負けじと私も人生を楽しみたい。異論は認める。
◇
私は軟弱なシンナキサラなので、嫌なことが少しあれば心揺れる。だからアシリパさん達のよう強く生きたいと、彼女らを見習ってこの前ジビエ食してきた。
鹿、猪、ワニ、カラス……個人的にワニが一番ヒンナだった。美味いものはいい。ヒンナヒンナ。
店には私と友達の二人だけしかおらず、夕方から夜中まで、ざっと五時間近く店主と話し続けた。今度店にお礼の菓子折でも持っていきたいくらいには楽しかった。
その後は友達と朝の三時までカラオケコースだ。大地を踏みしめて君が目覚めたり、奇跡は起こるよ何度でもルフランと、真夜中の閑散としたカラオケボックスで熱唱した。
他に人はおらず店員さんに筒抜けだったのではと、今になって心配なる。まあ、いい思い出となった。
神?知るか。
そんなものいない。
全てはひとつで、地球には体験しにやって来た? どんなに辛い状況も病気も、体験したいから訪れる問題?
うっせぇ、うっせぇ、うっせぇわ! である。
私は働かず悠々自適に過ごしたいし、そのために金が欲しいし、美味いものをたらふく食べたい。面白い漫画やアニメや小説、創作物に数多く触れたい。自分も生み出す側になれたらなあ、とも思う。満足して死んで、素敵な経験だけを満喫して持ち帰りたい。
宗教を学んだ。
スピリチュアルを学んだ。
けれど、信じる神は見つけられなかった。
そこに救いは見いだせなかった。
変わったことといえば、御託はいいから楽しく生きたいんじゃ!!と思うようになったことくらいか。
けど家族がいて、友人がいて、今日もご飯は美味しいし、ゴールデンカムイはめちゃくちゃ面白かった。ありがとう野田サトル先生。私はアシリパさんの顔が一番好きです。ラッコ鍋回は最高でした。
そんな訳で私は、昨日より今日、今日より明日、楽しく生きたい。それだけを目標に今後を過ごしていこうと思う。
最も、それが中々できないから、私も含め人間は苦しんでいる訳なのだが。だがこれが、救われたい一心で宗教やスピリチュアルを学び続けてきた、私の結論だ。
社会の枠組みに囚われて苦しくなった時は、ゴールデンカムイのラッコ鍋回(単行本12巻115話、アニメ20話)を思い出そう。
苦しみのさなかにいる貴方は、頭がクラクラしてきた尾形百之助なのだ。
谷垣源次郎がそっと介抱してくれる。
「胸元を開けて楽にした方がいい」
白石由竹が熱意の籠った声で指示を出す。
「下も脱がせろ! いや……全部だッ!! 全部脱がせろッ!!!」
杉元佐一は、そんな貴方を優しく見守ってくれている。
最後にはキロランケが表れ、相撲をとり始めた彼らを貴方は優雅に眺める。どうだ。何だか楽しくなってきた気がするだろう。
ここまで読んでくれた方がいたら、ありがとう。ゴールデンカムイ最終巻、忘れず買おうな!!
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