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〈名付け〉に関する考察①


名前と不明な存在

誰でも最初の〈名付け〉は、他者によってなされる。名付け親は生まれたばかりの、どんな人間かもわからない不明な存在に、名前を与える。

そう考えると、赤ん坊と与えられる名前の間に、意味の関係はない、といえるのではないか。赤ん坊と名前は、〈名付け〉という行為によって強制的に関係づけられる。

世間話で「名前の意味は?」と尋ねることがあるが、少なくとも、名前はその人を端的に表す意味ではない。あるとしたら、意味ではなく名付けの時点における祈りや願いだ。

私の出生名は、親曰く「特に意味はなく、響きでつけた」らしい。とはいえ、名字との字画の相性は考えて命名しているから、少なくとも「元気に育ってほしい」くらいの願いは込められている(だろう)。また「特に意味はない」という発言には、「名前に縛られず、自由に生きろ」という願いは込められている気がする。だがそれは、名を表す漢字や音の意味とは異なるものだ。

名付けは、可能性に満ちた、不明な存在にことばを与える行為だ。ことばを与えると、名付けられる前にあった不明性は消える。それにはそこにあった何かを消してしまう、という怖さもある気がする。それゆえ、名付けは対象への尊重と勇気が必要な行為だと思う。世の中の名付け親たちはきっとそれらを持って名を決め、与えたのだろうから、ただただ尊敬する。

分裂

「福井歩」は本名ではない。

つまり、「福井歩」は社会的に登録されている出生名=戸籍名と異なる。私の物理的身体は1つだが、私は少なくとも2つの名前による分裂を孕んでいる。

大学生の頃に「福井歩」を名乗り始めた。きっかけは、性別不明の役柄を演じるにあたり、出演する者の名前でネタバレするのもな、というところからだが、普段も性別があいまいな振る舞い・格好を好んでいたため、性別をあいまいにできる「福井歩」という表記が気に入った。下の名前を「あゆむ」と呼ばれるのも、「あゆみ」と呼ばれるのも、どちらも好きだ。呼び方が定まらないのは名前の機能としては正しくないのかもしれないが、もし下の名前で呼ぶ場合は、お好きな方で呼んでいただければと思う。

出生名は不明な存在に対して与えられた、意味を持たないことばであるのに、年を重ねるにつれて出生名に付随して、社会的な意味が積もっていく。それをアイデンティティにできる場合もある。しかし自身に与えられた出生名に加え、自らに名付けることで、出生名が持つ意味を弱め、自分が抱えているあいまいさを表に出したかったのかもしれない。

複数の名前を持つと、分裂が生まれる。そして複数の名前の間の行き来によって、それぞれの名前の力は、時には強まり、時には弱くなる。ひとつの名前から他方の名前へ、逃げ道が確保されている状態は心地よい。

自らの選択であれば、分裂は面白いと感じている。




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