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くらげ×寺島ヒロ 発達障害あるある対談 第188回 「いい顔しようとしすぎて過適応することは自滅の道よ!?テキトウが大事よ!?」ってお話

*この記事はゲスト回の後編となります(最後まで無料公開です)

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前回まで

本編

[く] 前回はASDの人の中にはとても話がクド…細かく長い人がしばしばいるという話から、絵画を自己表現とすると良いんじゃないかという話でした。

[寺] とはいえ、あくまで一例としての話です。そもそも興味が向かなければ描かないでしょうし、描きたいと思っても特性的に絵が描けない場合もあるでしょう。多数派の人と視覚情報が大きく異なる場合も考えられます。少し違うだけならユニークと評価されるかもしれませんが、あまりに違うと表現として受け止められる範囲を超えるかもしれませんよね。

[志] 絵画が苦手なASDの人はどうすればいいのかと思ってしまいます。重くて長くても、きちんと話に耳を傾けてくれる人がいればいいですが、そうでない場合は辛くなってしまうような気がします。

[く] そういう理解をされないという思いを抱えている人は、いわゆる「定型発達」でもあることだと思いますが、特に発達障害の人には多いのでしょうね。

[志] 前に「定型発達者のふり=マスキング」の記事を紹介させていただきましたが、孤独を感じながら周囲に期待される姿を演じている人もいるのではないかと思います。それもどれが本来の自分かわからないほどにです。

[く] その「マスキング」ですけど、いわゆる「定型発達」でもその場その場で「マスク」をして生きているんじゃないでしょうか? なにか特別なことがあるんですか?

[志] 全く違います。別人格が生じるわけですから。

[く] 例えば、聴覚障害があって手話ができる私が「聞こえる人」と「手話ができる人」の前では使う言語すら違うわけで、そこで「人格が違う」と感じることがあります。これとも違う?

[志] それは言語の違いです。定形発達の人が状況や相手によって対応を変えることと、発達障害の人が別人格を作り出して対応することは全く違います。定形発達の人は場の雰囲気や相手の気持ちを察する能力があって、別人格を作り出したりはせず、1つの人格のまま対応していると思います。その一方で発達障害の人はそういった能力が不足しているため、本来の自分のままでその場や相手の気持ちに応じた適切な対応をすることが困難になって、意識的に、あるいは無意識に別人格を作り出すことがあるんです。これを記事の中ではマスク(仮面)をかぶるようなことという意味で「マスキング」と呼んでいるんですね。

[寺] コミュニケーションのために、その場にふさわしい自分の発話パターン…キャラって言った方が伝わるのかな…などを作る、その仮面みたいなものを心理学用語ではペルソナって言うんですけど、それと似たようなものなのでしょうか?

[志] 「仮面=ペルソナ」という認識でも、間違ってはいないと思います。ただ発達障害の人の場合、そのペルソナに乗っ取られることによって自我が小さくなってしまい、本来の自分がわからなくなってしまう、いわゆる自分自身そのものを失ってしまうことがあるのではないでしょうか。第186回に紹介した『無限振子』の著者であるLobin H.さんもこういった状況だったのではないかと。

[寺] 志堂さんは「マスキング」は「やめたほうがいい」と思っているんですよね。

[志] はい。やらずに済むならやらないに越したことはないです。マスキングというのは文字通り真綿で首を絞めることだと思います。いくら真綿といえど、絞め続けられればいつかは窒息してしまう。命を奪う危険をはらんでいる諸刃の剣です。

[く] でも、社会性を維持するために「ペルソナ(マスク)」をかぶるわけですよね。それをしないのもまた苦しいことではないでしょうか

[寺] 私も長期的にはやめた方が良い、そんなことしなくて良いように社会が多様性に対して寛容であってほしいと思うのですが、余計な摩擦を防ぐために、ちょっとの間なら平気な顔をして過ごしてしまいたいと思うこともあります。深刻なのは、意識してなくてやっている場合かなと思いますが、その辺はいかがですか?

[志] やむを得ず「仮面」を作ってしまう場合も確かにあると思います。ただ、それでもなるべく早くやめた方がいいです。マスキングに陥ってしまう人の中には、人との摩擦を恐れている人もいるかと思います。でも、周囲と摩擦を起こさずに生きていく、なんていうのは不可能です。もしそうしようとすれば自分自身が壊れてしまう。私は『人間失格』や『無限振子』からそれを学びました。もちろんこれは発達障害の人に限らず、ふつうの人でもそうでしょうけど。でも発達障害の人はできるだけ早くこのことに気付いた方がいいと思います。でないと自分が辛くなるから。というより、そもそも自分が壊れるまで周囲に合わせる必要なんてないと思うんですよ。そういう気持ちを込めて作ったのがこちらの作品です。

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[寺] なるほど。志堂さんは「マスキング」に陥らないためにはどうすればいいか、何かアイディアはありますか?

[志] 私の考えでは、まず、自分の状況に違和感を感じたら、その違和感の正体を可能な限り突き詰めて考えてみる。自分の中の違和感から眼を背けないことが大事だと思います。もしかしたら、そこから何か見えてくるものがあるかもしれない。次に、周囲に合わせることが辛いと感じたら、今すぐ(できるだけ早く)やめる!自分の中の違和感に蓋をして合わせ続けていると、後々とんでもないことになるというのは『無限振子』でLobinさんが証明済みです。最悪の場合、〝自分自身そのもの〟を失ってしまう可能性もあります。また、自分にとって快適な環境がどんなものかを考える。ストレスが多い場所でも、自分にとっての快適さがどういうものかがわかれば、自ずと合理的な判断ができるのではと思います。もしかしたらそれで、「冷淡」とか言う人もいるかもしれない。でも、そんなのは言わせとけって感じです。自分の身と心を守る方が何百倍も大事です。もしそういう人がいたら、「この人とはそれまでの関係性だった」と割り切ることも必要だと思います。

[く] 正常な組織を保つにはセルフモニタリングが不可欠なんですが、そういうかんじですね。まぁ、発達障害者の殆どはセルフモニタリングがクソ苦手なんですけど。

[寺] そうですね。自分の発達障害を指して「他人のことも自分のこともわからない障害」と『無限振子』のLobinさんは言ってましたが、セルフモニタリングからうまくいかない場合はそこが一番の悩みどころになるかもしれないですね。

[志] 人間関係に対しては基本的にドライになった方が、心の平安には繋がりやすいのではと思います。少なくとも私は『人間失格』でそれをひしひしと感じます。とはいえ、私自身ドライになれているかと言われれば、なれる時となれない時があり、一時期はかなり悩みもしました。今でもそういうことはありますが、昔に比べれば少しは減ったと思います。

[寺] 志堂さんは「わかってほしい欲」がASDの中では旺盛な気がします(笑) しかし、私がそう感じるのは他のASDの人の方がすでに諦観の域に来てるからなのかもしれないですね。

[志] わかってほしい欲……そうですね。人と繋がる、ということを諦められなかったからかもしれません。正確には、「わかってほしい。でも、うまく伝わるかどうか、誤解されないかどうか不安」というところですね。いわゆるハリネズミのジレンマというやつです(笑) ただ、人間はたとえどんな形であれ、人と繋がりたいと思う生き物ではないかと私は思っています。

[く] そこは私も強く思いますね。あおからは「人間好きのコミュ障」と言われますが(笑)

[寺] くらげさんは一気に距離をつめて怖がられるんですよ、少しはペルソナを設定してくださいよ(笑)

[志] 続けますね。自分の中の譲れる部分、譲れない部分の線引きをある程度決めておく。これはかっちり決めておく必要はないです。状況によっても変わってくるでしょうから。その上で、ここはどうしても譲れない、という部分があれば押し通してもいいと思います。最後に、何かを選択する時は、その物事の、自分にとってのメリット・デメリットを把握する。断っておきますが、エゴイストになれと言ってるわけじゃありません。まあ、エゴイスティックな部分のない人間なんていないと思いますが。少し話がそれますが、第187回目で出てきた『鋼の錬金術師』(以下ハガレン)という漫画の中の錬金術には、等価交換の原則というのがあります。ざっくり言えば、「何かを得るためにはそれ相応の代償、いわば対価を支払わなければならない」というものです。たとえば、「ある物体Aから何かを作り出す場合は、その物体Aに見合った価値のものしか作れない」ということですね。 ハガレンの主人公エドも、頼みごとや取引を持ちかけられる際はこの原則に則って、見返りに何があるかを確認することがあります。これを選択という行為に当てはめると、その物事によってもたらされるものは果たして労力に見合っているのかどうかということになります。よくテレビで詐欺の特集がありますが、詐欺師が持ちかけてくる話をよくよく吟味すれば、「これ(自分にとって)メリットないじゃん」となるのではないかと私は思っています(なんで騙されてしまうのか不思議に思うことも私は結構あります) そうすると、「何かあるな。怪しいぞ」となり、騙されることへの予防になるのではとも。メリット・デメリットを把握した上で、自分の中の譲れる部分・譲れない部分と合わせて考えれば、自分にとっての最適な選択に近付けるのではないかと思います。

[寺] どうしても発達障害があると何かを決めるときに頭が泡立って「とにかくもうさっさと終わらせてしまいたい!」と思ってしまいがちだったりするのですが、先に自分のこだわりの部分を把握しておくというのは良いかもですね。

[志]そうですね。自分のこだわりを把握するのは大事だと思います。今言った5つは寺島さんの言葉を借りるなら、「ASDの理論武装力」という感じでしょうか。第163回目の、エアコンは発達障害者にとって生命維持装置だということがテーマの記事のカット(挿絵)に出てきた。

[く] ところでちょっと話を戻しますが、「マスキング」って「学術的な話」なんですかね?

[寺] うーん、どうでしょう? あえて言うなら、高知能のASDによく見られる「過適応」と、障害特性的に感情の処理が追いつかずペルソナで全ての外的コミュニケーションをこなしているうちに鬱状態に陥る「自動操縦」の合わせ技みたいなかんじじゃないでしょうか。

[志] 学術的云々というよりは、そういう呼び方をする人も発達障害の中にはいるということだと思います。冒頭で挙げた記事にもそう書いてありましたし。

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[く] 「過適応」というのはよくわかります。戦争でいうと、軍隊の方針って「訓練! 訓練! 訓練!」で想定外を潰していく(練度を上げる)のと「とにかく情報を集めて臨機応変に動ける組織にしていく」ってのが有ると思うんですよ。前者は突き詰めるとまさしく「マスキング」になりますし、想定外にめっちゃ弱くなる。後者は想定外に対応できるけど、指揮系統がばらける&分断されて個別撃破される、という恐れが大きくなるわけで、これは非常にADHD的であるな、と。どっちも「テキトウ」にしておきましょう(笑)

[寺] 「テキトウ」がわからないから、我々コマカイーズは苦労してるんじゃないですかー!

[志] 全くです。笑いごとではないですよ。「マスキング」は一見適応しているように見えるところが怖い。それこそ命にかかわる問題として警鐘を鳴らしたいと思います。

[く] さて、今回は非常に長いゲスト回となりました。それぞれ最後に一言ずつお願いいたします。結構実りのある回ではなかったかとは思いますね。

[志] ここまでお付き合いくださった読者の方々、コメントを寄せてくださった方々、ゲスト回にスキをくださった方々、本当にありがとうございます。未熟で至らない点もあったかと思いますが、私がこの対談で話した内容が少しでも皆さんのお役に立てば嬉しいです。散らばっていると見づらい気がするので、「マスキングに陥らないための五か条 〜自分の身と心を守るためのドライのすゝめ〜」としてこちらに私の考えをまとめました。あくまで私個人の意見ですが、よかったら参考にしてください。

[寺] 志堂さん、本当に長い時間と労力を割いてくださって有難うございました。「マスキング」は、正直私も最初に聞いたときはマスキングテープぐらいしか思い浮かべられなかったのですが、一見適応しているように見えたけど、実は…というのは支援の現場でもよくあることなんじゃないかと思います。案外これから流行るかもですよ。

[く] 流行るほど増えちゃ困るという話なんですがね(笑) では、お疲れ様でした!また来週!

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妻のあおががてんかん再発とか体調の悪化とかで仕事をやめることになりました。障害者の自分で妻一人養うことはかなり厳しいのでコンテンツがオモシロかったらサポートしていただけると全裸で土下座マシンになります。