日々是くらげ15日目「『社会に声を上げても通じない無力感がある』というけれどSNSが発達すれば発達するほど無力化がつのるのではという話」
毎日なにかしら自由にまとまった文章を書いているとちょっとなにか思いついたときにメモをするようになって「自分も意外と色々なことを考えているのだ」と気づくのだけども、メモの大半は使われることなく眠り続けている。今は思いついたことはGoogle Keepにメモをしていて、ネタの困ったときは掘り起こすように過去のメモをザッピングしていて、そういう死蔵しているネタが山のようにあって中には「何を書いたかわからん」というのも出てくる。まぁ、紙のメモだと悪筆すぎてそもそも読めないというのが大半なのでそれよりはマシなのだけど。
本日はちょっとネタがぱっと思い浮かばないのでメモを読み返していたら「直接声が届けられるのに声が通じないのはなぜ?」というのがあった。なんだっけ?と思い返してみたら「若者の投票率」の話題でどこかで「若者は社会や政治に声を上げても届いている気がしない・無力感がある」とよんで書きつけたものだった。
先月の衆議院選挙があったけど、ここ数年は大きな選挙がある前には「若者は投票に行こう」というキャンペーンが行われている。しかし、若者の投票率が上がった、明らかにキャンペーンが成功した、という結果は少なくとも選挙の情勢を変えるレベルでは出ていないはずで、むしろ「今回もだめだった」という『反省会』が行われているように思う。その中で「若者は社会に対する無力感を抱えている」という言葉を幾度となく目にしている。
だけども、今ほど「社会にダイレクトに声を届けやすい時代」はない。30年前には新聞の投書欄が「社会に声を伝える」ための数少ない場所だったくらいに「自分の意見を社会的に認知してもらう」というのは難しかったように覚えている。しかし、今では一個人でもSNSでダイレクトに声を上げられれるわけで、SNSが社会を変えるという事例も増えているし、政治家もSNSの影響を強く意識するようになっている。だから「自分が声を上げてもどうにもならない」という無力感を感じるのはちょっと不思議な気もする。
そうなると、一つ考えられるのは「声を上げる」ということとその「反応」の間に大きなギャップがあることだ。昔は「声を上げる機会」自体が少なかったからこそ、ダイレクトに政治家なり社会というものに一石を投げられるように準備することが欠かせなかったから「受け入れられる」なり「拒否」されるなりの反応は今よりはダイレクトなものだったのではないか。
今はもうスマホ一つで「声を上げる」ことはできる。だけども、その「効果」は実感しにくい。蚊の群れの音はとても大きいらしいのだけど、蚊一匹一匹の出す音はとても小さなもので「どの蚊がどの音を出しているか」と考えることに意味がない程度にはSNSでの「声」というものも全体から見たら本当に些細なものでしかない。
だから、「声を上げる」というアクションは無数にできても、その反響というものはとても小さい。そうなると声を上げれば上げるほど「無力感」を感じやすいのかもしれない。その解決をどうすればいいのか、というとまぁ、SNSではなくて、社会活動をする団体なり、今の仕事なりで「社会を変える」というアクションができないかを考えてみたり、直接政治家との対話ができないか試してみたり、ということで「SNS以外で動いてみる」ことが大事なのかもしれないなぁ、と大雑把に考える次第である。
私みたいなネット弁慶はとくにそういうSNSを忘れてなにかやる、ということが大事なようにも思うのだけど、まぁ、社会をどうこうということがSNSでどうにかなるものでもないなぁ、という諦めのようなものがあって、まぁ、虚無に向かって叫んでみるのである。まぁ、この日記も虚無であるのだけど。さて、今日の日記はこれくらいで。では。(おまけちょっとあります)
妻のあおががてんかん再発とか体調の悪化とかで仕事をやめることになりました。障害者の自分で妻一人養うことはかなり厳しいのでコンテンツがオモシロかったらサポートしていただけると全裸で土下座マシンになります。