『ふつうに生きるって何?』(井出英策)を読んで
1.ソーシャルワーカーは「人のかたち」を語れ
井出英策さんを知ったのは、『ソーシャルワーカー~」「身近」を革命する人たち』(藤沢市にある伝説の小規模多機能「あおいけあ」運営、加藤忠相さん等との共著)という本からです。
「ソーシャルワーカーは、社会や福祉の「制度」を語るんじゃなく、必要とされる「人のかたち」について語ろう」というメッセージに共感しました。「ケア」とは高齢者だけのものではなく、課題を抱える人を広く「気にかける」ことだ。この観点は難しいながらも、自分の指針にしています。
2.クラス対抗リレーに負けたら、クラスがバラバラに?
主人公の愉太郎(ゆたろう)は小学校5年生。勉強はクラスで真ん中ぐらい。走るのが得意で、好奇心旺盛な男の子。両親が離婚し、母親とふたり暮らしをしています。
運動会でリレーのアンカーを任された愉太郎ですが、ゴール前で転び、チームは負けてしまいます。「リレーに負けた」という結果を受け、愉太郎を責める子とかばう子に、クラスが分かれてしまいます。
「自分が自分のために汗をかく」「みんながみんなのために汗をかく」という2つのがんばりで私たちの世界は成り立っている。でも、後者の領域(今回は、リレーでクラスが勝つためにみんなが頑張ったこと)を語る時、ある種の「難しさ」がついて回る、と井出さんは言います。
3.運動会の目標設定を、ちょっと変えてみる
運動会のリレーは、選手として走る人と、応援する人とに分けられます。そして、ひとりひとりをよく見ると、いろんな事情を抱えていることに気づきます。例えば、汗をかこうとして失敗してしまった人、汗をかきたくてもかけない人、誰よりも汗をかいたと信じている人…。
「リレーに勝つこと」が目標の場合、失敗してしまった選手に「お前のせいだ!」と感情をぶつけてしまう。その時、個々の「事情」を考える余裕は、なかなか持てませんね。自分の失敗で負けたのは事実だから、責められた方は口をつぐむ。双方にネガティブな感情が残るんじゃないでしょうか。
でも、リレーの目標が「みんなで楽しむこと」だったらどうでしょう?
リレーで走る人も応援する人も、お互いの立場を考えて、「どうやったら楽しめるか?」話し合える余裕が生まれるように思えます。走る方はリラックスして自分の力がうまく発揮でき、応援する方は選手が転んでしまっても、失敗を受け止める余裕が持てるかもしれません。
「勝つ/負ける」は目標設定として分かりやすいですが、「結果」なので白か黒かしかありません。一方で「みんなで楽しむ」という目標設定ができたら、「プロセス」なのでグレーな楽しみ方ができる(※ここで言うグレーは、ほめ言葉です)。
それぞれが抱える「思い」や「事情」について、クラスで話し合って分かり合えている。失敗しても、どうやって「アシスト」できるかをみんなで考えられる。そして、クラス全員でリレーが楽しめる。そんなクラスの方が、リレーで勝てるクラスよりも100倍魅力的だと思います。
4.「あとがき」で語られた「生きる意味」と「チャンスの差」
愉太郎は小学生らしい素直さや好奇心を持っていますが、一方で、悩みや考えはどれも本質的。かつ妙に大人びていてアンバランスさを感じます(笑)。でも、「あとがき」を読んで、その理由が分かりました。
井出さんは子どもの頃、勉強ばかりして、いい大学へ行き、いい会社に入る。そんな「ゴール」や「結果」ばかり気にして生きてきたそうです。そんな井出さんが、自分にはできなかった生き方を、愉太郎に託して書いたのが本書なんです。
生きる目的は「ゴールに着く」ことではなくて、「ゴールに向かって歩く」こと。また、母子家庭だったご自身の境遇もあるかもしれませんが、「頑張らないのではなく、頑張れない人たちがいる」と語ります。努力しようにもできない、「チャンスの差」があると。
そして大切なのは、「チャンスの差」が決して「自己責任」ではない、ということです。ひとつは、困難な事情を抱えたまま放置されている環境や制度の問題。もうひとつは、困難な現実があるのに、自分は関係ないからと「見ないふりをする」私たちの意識と行動の問題。
環境や制度に対しては、単なるサービス・プロバイダーではなく、プラットフォーム・ビルダーとしてあること。そして、困難を抱える人に「見ないふりをする」のではなく、「気にかける」こと。井出さんから、ソーシャルワーカーへの期待を受け取ったような気がします。
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