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アセクシュアルこそ真実の愛を知っているのではないか
なんだかヘテロの人たちよりもアセクシュアルこそ人間の真ん中にある愛というものを知っているのではないか...と思っているところです。私は残念ですが言語化が苦手です。読みづらい文章だとは思いますが頑張って書いてみようとしています。
もちろんアセクシュアルの人全員がそうというわけではありません。アセクシュアルにも多様性がありますから。ですがなんとなく思うのです。私たちは、性欲という黒いものに引っ張られない、つまり自らがその愛しい対象に関与し影響を与えたい(しかもそれが他人ではなくどこまでも自分が与えるものでなければならない)という、目の前に狩りたての血肉を吊り下げられた猛獣のような意識を持たないのです。これはどういうことか。こういった欲を持たない我々アセクシュアルの誰かを慈しんだり愛しいと思ったりする感情は、ヘテロの人たちのそれとは比べ物にならないくらい深く優しく強いものなのではないだろうか...。近頃このように感じてならないのです。そう思いませんか。
こんなことを思ってしまうのはもしかしたら、私が今まで経験してきた他者からの性的な目に憤慨する気持ちの結果なのかもしれません。たしかにこうしてヘテロとアセクシュアルを分けて考えていること自体がとてもよくない物事の見方なのかもしれません。(いま書いていてヘテロだけでなくホモセクシュアルも入れるのが妥当だと気づきました。)こうして多様な人類を他者に性的に惹かれるか否かで分類して、性的に惹かれる方よりも惹かれない方が優れているなんて考えは、本末転倒なのではないか。とももちろん思います。思いますよ。でも、本当にそう思えてならないのです。ヘテロなどの性欲に動かされて生きている人々に一体我々は何度恐怖したか。さらには自分がおかしいと孤独感を覚えたか。しかもそんな人たちが築いた夫婦・家族が最小単位としてこの世を構成しているのです。一体私は何者なのだろうか。そのように己の存在に気持ち悪くなる経験を何度してきたことでしょうか。
そういった経験もあってか、アセクシュアルの人の持つ他者への愛は果てしなく限りなく深いものなのではないかと思うのです。たとえば道が分からなくて困っている人がいるとします。そのとき私たちはおそらく、できるだけその人に気を遣わせないように道を教えてあげることができないだろうかと考えるでしょう。もしくはその困っている人がもし大事な用事で急いでいるのならなおさら教えてあげなければと思うと思います。このとき相手の性別など見えません。このときヘテロの人は真っ先(かどうかは分かりませんが少なくとも最初の方)に性別を見るんだろうと予想します(そんな人ばかりじゃないのは重々承知ですごめんなさい🙇)。これが怖いと言っているのです。困っているから助ける、となぜならないのだろうと思うのです。
もう1つ例を挙げてみます。なんだか最近フレンドリーに話しかけてくれる人がいるとします。もうそれはそれは嬉しいことです。まさに愛を感じる瞬間です。しかしその人は自分に対して仲良くなりたいとは違う気持ちで話しかけていたことが後に分かります。自分に恋愛的な感情が相手に無いことが分かると急にその人のフレンドリーは消えます。もう絶望です。今まで抱いていた美しい愛は虚像だったのか…。
アセクシュアルこそ本当の愛を知っていると思ったのはこういったことが理由です。何度もうるさいかもしれませんがアセクシュアルの人みんながこうであるとは思いません。もしかしたらセクシュアリティは関係なく、ただの性格の問題なのかもしません。ただニュアンスが伝わればと思って頑張って書いてみています。単純な例しか今は思いつきませんが、こういったことが日常茶飯事です。
アセクシュアルこそ人間の中に存在するそのまんまの愛を知っている。これは自分を慰めるための虚構なのかもしれないですが、自分のセクシュアリティになんとか価値を見出せている気がして、最近は生まれ変わってもこのセクシュアリティがいいななんて思っています。