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波佐見までの狭間

※波佐見の語源は狭間ハザマ(谷あい)とか

2006年波佐見町に移住しました。長崎なのに海がない。海がないのに波が付いている。当時、ハサミと読まずハザミと呼ばれたりと無名の陶磁器産地。かく言う私も、白山陶器の所在地、エキゾチックなコンプラ瓶を作っていた地ということだけは知っていてました。

2003年に初めてこの地を踏んだのですが当時、岩手の薪窯を有する福祉施設の職員として2年目、慢性的に職員が足りずそのまま職員になってもらいたい様な感じが出てきた頃。思い立って佐賀県の窯業大学校、県職員として欠員1名の職員の募集に名乗りを上げ試験を受け2次試験も受けたので2回波佐見を訪れました。

その他にも青年海外協力隊 JICA 1次試験 盛岡 2次試験 当時六本木界隈だった記憶、を受けたり、とにかく陶磁器にどっぷり浸かる環境に染まりたい28歳の頃。

波佐見を訪問時に大手問屋さんの社長に出会いました。社長はあちこち分業の職人の工房を案内してくれて、最後にはうちに来いとは言っていたものの、商社の仕事は検品、箱詰めが主な仕事。断りまではしないまでも、JICAや大学校の返事待ちですと答えて言葉を濁していました。

JICAはコスタリカの補欠の様な受かり方で数ヶ月待ってこちらから連絡がなければ無かったことに、という通知、佐賀の大学校は落ちました。

波佐見訪問から6ヶ月くらい経ったある日、波佐見の社長から”タイの工場に行かないか?”という電話をいただき。それは楽しそうと二つ返事で波佐見経由 バンコクへ、勤務地はバンコクから北へ高速道路で2時間の工場でした。
2004年のことです。タイも陶磁器の歴史は古くからある国です。
スンコロク、ランパン地方のセラドン、染付、金彩のベンジャロンなどなど


タイ、歴史的建造物のタイル



サラブリ ノンケーという田舎町でした。公用語はタイ語、仕事の内容は商品開発。従業員たちにどうしても伝えないといけないポイントがありましたので、コミュニケーションのタイ語は自然に覚えていきました。

通勤で使う車はカローラ軽く70万Km超えてましたがまだまだ現役、さすが世界のTOYOTA 。通勤途中、フロントガラスが経年で前触れ無しにクラック。一瞬で真っ白、視界ゼロでどうなることかと思いましたが後続からの追突もなくガラスだけ修理して復帰しました。

タイでは車の酷い事故を何度か見かけていたので恐ろしかった。

工場の近隣には大きな石膏屋さん(陶磁器産業には不可欠)、洋食器メーカー、衛生陶器メーカー、ホンダのバイク工場などがありました。勤務した工場は和食器と大手高級洋食器のOEMをしていましたので、大量生産の技術、流通の背景に触れとても勉強になりました。

タイといえば屋台、あそこのクイッティアオ(麺)、ガオラオ(メインのカオマンガイと共に食べる野菜スープ)屋が美味いと聞くと現地人に連れられてよく行っていました。ただやはり陶磁器は未だ高級品なのでしょう。庶民のお店で使う食器はメラミン、プラスチック、金属のものでした。フォークもペラペラ。コーラなんかは手提げビニール袋に氷を入れストローを差したテイクアウトにもってこいのスタイル、日本でも流行るかと思いましたが、最近ビニールは減らす傾向ですからこれからも無いでしょうね。

工場で日々何千個と生産していても使うのはメラミン

もう少しタイ料理の話を
ソムタム ガイヤーン カオニャオ、(パパイヤサラダ、鳥を焼いたの、もち米。もち米をサラダの汁に付けて これは鉄板の東北地方セットです)タップワーン(レバーのラープ)、パッキリウ入りクイッティアオ ナムトック(牛ホルモン、センマイ、ハチノス入り麺. 血も少々 ※牛系屋台は南部に多い)、ホイトー(牡蠣の卵とじ)、ジョーク カイケム(米を砕いてあるお粥と塩辛い茹で卵)、サイクローク イーサン(東北地方の酸味のあるソーセージ、米入り)ムーカタ(ジンギスカン鍋で食べる焼肉と鍋、金額決まっていてビュッフェスタイル、基本豚)、からいディップと食べるナマズを焼いたのも美味かった。辛さ、パクチーの量等細かく注文したり、ちょっと思ったのが卓上の調味料の多さ、皆
いろいろと覚えてるくらいタイ料理好きでした。

中国からの影響もあり多彩な食文化、陶磁器文化もあるはずなのに。

食べ物の話止まらなくなるのでこの辺で

土産物やちょっと高めの飲食店で使われる陶磁器

2年も経ったある日、波佐見の社長から”波佐見に場所を用意した”とのことで帰国今の波佐見 西ノ原 の製陶所跡地です。

そこに、商品開発の為の機材を集め2006年波佐見での生活が始まりました。


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