Bookレビュー「つげ義春/無能の人」・・・”無能の人”って誰のこと?
「無能の人」という衝撃的なタイトルが目に焼き付いている。
約30年前、小学校の中学年頃だったと思う。
石を売るお父さん。途方に暮れる家族。
何とも言えない読後感だった。
1回(しかも1話分だけ)しか読んでいないのに、強烈なタイトルと内容だったので忘れることはなかった。
先日、本屋で「つげ義春」と書かれた雑誌「東京人」を見かけて、大人になった今、久しぶりに読んでみようと思った。
んで、最後まで読んでみたところ。
うーん。率直なところ、感想を書きづらい。
・救いという救いがない。
・湿気と生活感がある。
・終始、うす暗い影がべっとりまとわりつく感じ。
とでもいうべきなのか。
まず、主人公の妻は、紙面に登場してくるのに表情を表さない。何だこれは。
そのままずーっと話が進んでいって、やっと寂れた温泉旅館へ行くときになって初めて表情が明らかになる。
物語の全体的な雰囲気は、場末感というのか、退廃的というのか。
「キラキラ感」「ファンタジー感」が全くない感じがクセになって、一部のファンに根強く人気なのかもしれない。
商業的に言えば「狙ってる感じ」「流行に乗る感じ」がない。
=これがある種の高尚さを感じさせるのだろうか。
あるいは、どこまでも独自路線、一匹狼(所帯持ちだけど)、世間の隅っこあるいはなんとなく隔絶された感じ、ノスタルジックで廃れていく美しさや儚さ、ある種の「落ちぶれ」みたいなものに憧れる性質が人間には備わっているのかも、とも思う。
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個人的な経験を絡めて書くと、学生のときに河原に住んでいるホームレスの人に接触しインタビューしたときのことを思い出す。
そのときに感じたのは、
・世間と関わりを持ちたくない、そういう人が一定数いるんだな
・ああ、こういう価値観ってなんか不思議。当たり前だったものがそうじゃないこともあるんだな
・社会から捨てられた人ではなく、社会を捨てた人(世捨て人)なのかもしれない。ある意味「人里離れたところに住んでいる、悟っている仙人」みたいだな
ということだった。
とても不思議な感覚だった。
とりあえず、それまで抱いていたネガティブ寄りのステレオタイプ的偏見とは異なる感じ方に変わった。
そうかといって、自分がそうなりたいとは思わないし(なれる勇気もサバイバル能力もないし)、人間の尊厳とか法律とかそういう既存の社会的価値基準やスケールで考えようとも思わなかった。
それとはかけ離れたところで、自分の価値観や常識を静かに、でも確実に揺さぶられていた。
社会というシステムに生まれた瞬間から必然的に組み込まれていてそれを疑いもしてこなかった自分と、それから逸脱しているホームレスの人。
当たり前のように自分が生きている世界を、別の角度から見るいい経験でもあった。
青い空が広がる河川敷の、橋の下。
段ボールと、青いビニールシートの簡素な家のその住人に、間接的に問われているような気がした。
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この「無能の人」に出てくる人はホームレスではないし、家族や社会との接点もあるので天涯孤独ではないのだけれど、読んでいて何となく近しいものを感じた。
今、よくよく考えてみたら、「無能の人」って、この主人公のことを指しているのだろうかという疑問が湧いてきた。
シニカルに考えると、実は「主人公=無能の人」と決めつけている読者の方を指している可能性だってあるのでは、とも思えてくる。そう考えたらかなり面白い。主人公の立場と読者である自分の立ち位置が残酷なまでに見事に逆転する。
とりあえず、まとめ的にこの内容の良いところを挙げるとすると、
・河川敷に落ちている「石」と高値で取引される「石」の対比。
ズドーン、と石が落っこちてきたような衝撃と胸をえぐられる感じ。常に心にすきま風がスーッと吹き付けてくる感じ。
・どんなに貧乏になっても、悪行に走らない点。
・妻が見放さない点(悪態はつくものの)。
・この世の中に3人だけ取り残された感。=3人の家族の”結束?”…というと聞こえが良すぎるのだが、それを際立たせる。
「なんだか世の中から孤立してこの広い宇宙に三人だけみたい」
「いいじゃねぇか おれたち三人だけで…」
・主人公(作者)の視点がナイフのように鋭い。一言一言が重い。
ひ弱そうに見える主人公が、世界のトップテニスプレーヤーみたいなG(重力)の魔球で打ってくる感じ。当たったら重症。
・嘘やまやかし、功利主義の世の中において、そこから離れている主人公という構図で考えると、高潔とまではいかないのかもしれないが、筋の通った実践主義者なのかもしれない。
とにかく、一回読んだだけで30年は忘れない、強烈で刺激的な漫画であることは間違いない。
一言で言うなら、読む人によって毒でもあり薬でもあるニトログリセリン的漫画と言ってもいいかもしれない。