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【考察①】「米津玄師/灰色と青」は恋愛の歌だった!? 〜2人のすれちがいとは〜

先日投稿した「灰色と青」のレビュー。

投稿したあとも「なんかスッキリしない、納得できないなあ」というモヤモヤを抱えていたので、自分なりにじっくりと考えてみた。

私がスッキリしない最大の点は、
「この2人はこんなにお互いを想っている(ように感じる)のに、なぜ疎遠になっているのだろうか」
という疑問。

同じ場所(ブランコがある公園)が出てくることから、引っ越しなどで遠い場所にいるわけでもない。死別でもなさそう。
…じゃ、もしかすると恋愛絡みなのかな、と。

そこで、改めて歌詞の意味を追いながら整理していきたい。


2人の性格の違いは?

(男性1=米津さん)

窓に僕が写ってる

ひしゃげて曲がった あの自転車で走り回った
馬鹿馬鹿しい綱渡り 膝に滲んだ血
今はなんだか ひどく虚しい

(男性2=菅田さん)

窓の外を眺める

靴を片方 茂みに落として探し回った
「何があろうと僕らはきっと上手く行く」と
無邪気に笑えた 日々を憶えている

もし、これが同じ日の同じ出来事を語っていると仮定すると、二人の性格の違いが浮き彫りになる。
同じ出来事を経験しても、人間の特性の違いによって、切り取られ方や記憶は異なってくるからだ。

少年時代の夏のある日、彼らは自転車で走り回って遊んだ。
河原だろうか、草が生い茂っているところで靴を片方なくし、傷を作りながら一生懸命探し回ったのだろう。靴が見つかったかどうかはわからないが、お互い笑いころげた。

男性1は、
「窓に僕が写っている」「ひしゃげて曲がった」「馬鹿馬鹿しい」「綱渡り」「傷」「血」。
そして、今は「虚しい」。
・・・内向的、ネガティブ、慎重で神経質、繊細なイメージ。

男性2は、
「何があろうときっと上手く行く」「無邪気に笑えた」。
そして、「それを憶えている」
・・・外向的、ポジティブ、鈍感、おおらかなイメージ。

こう考えると、どうやら対象的な性格の二人だったよう。
対象的だからこそ、お互いの良いところがお互いを補うようになっていたのかもしれない。


2人にはどんなすれちがいがあったか?

時系列でこの3つに分けてみる。
1.少年時代(2人が一緒に遊んでいた頃)
2.歌の前半
3.歌の後半  

(男性1=米津さん、男性2=菅田さん)

1.少年時代
一緒に遊んでいた時代。
時 :同じ
乗り物:同じ。自転車やブランコ
見ているもの:同じ

⇒ 同じ時、同じ乗り物に乗って、同じものを見ていた。

この後、何かが原因で二人は疎遠になる。
そして、歌の中で描かれている時代に入る。

2.歌の前半
時:同じ。夏の終わり頃の明け方
乗り物:違う(男性1は電車、男性2はタクシー)
見ているもの:同じ「窓」だが、違う。
(男性1は窓に写る自分=内側。男性2は窓の外=外側)

⇒ 同じ時間のことを描いているが、それぞれが別の乗り物にのって、別の視点。場所と視点がすれ違っている。

3.歌の後半
時:違う
乗り物:同じ(ブランコ)
見ているもの:同じ。
 男性1も男性2も:「朝日が登る前の欠けた月を君もどこかで見ているかな」 「どれだけ背丈が変わろうとも〜今も歌う」と歌う。ただし、一緒には歌わない。それぞれ別の部分で一人で歌っている。
(改めて見直したところ、「朝日〜」は男性1だけが歌っていたので訂正しました。)

⇒ 同じ公園のブランコにいるので場所は同じ。それぞれが同じことを思っているので気持ちも同じだが、時間だけがすれ違っている。

どれだけ背丈が変わろうとも 
変わらない何かがありますように

どれだけ背丈が変わろうとも=目線が変わる、見るポイントが変わる、場所が変わる⇒ どれだけ違うところにいても(どれだけ歳をとっても)

変わらない何かがありますように同じ月を見ているかな(見ていてほしい)= 同じ気持ちでありますように

つまり、どれだけ違うところにいても、どれだけ年を重ねても、同じ気持ちでありますように
という意味。

時間と場所、両方の意味がある。
だけど、時間と場所が同時に一致することはない。
これがすれ違い。


ここまでをまとめると、

お互い性格が正反対の二人。少年時代に意気投合して毎日のように仲良く遊んだ。が、あることがきっかけで疎遠になった。
今は、過去の思い出を胸に、別々の場所(時間)ですれ違いながらも、お互いを想って
「朝日が昇る前の欠けた月」を見ている。

という感じだろうか。


(次回に続く)






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