さびれた映画館とバルが50~60軒だけのナポリの下町で人々が娯楽にしていること
モニちゃんの親戚たちの多くが住むナポリの下町フオリグロッタには、ほとんど娯楽がない。少なくとも僕はそう感じる。あるのは、さびれた映画館とバルが50〜60軒といったところである。
浜田省吾の『MONEY』の歌詞みたいな表現になってしまったが、本当にそうなのだ。MONEYであればこのあと「ハイスクール出た奴等は次の朝バッグをかかえて出ていく」わけだが、フオリグロッタには若者も多く活気もある。
フオリグロッタをご存じの方であれば、ここまで読んで「おいおい、フオリグロッタ最大の娯楽を忘れちゃいないか?」と思うだろう。そう、フオリグロッタと言えばセリエAのSSCナポリの本拠地『スタディオ・マラドーナ』がある。
フオリグロッタの住民のSSCナポリへの情熱は凄まじいものがある。フオリグロッタで生まれ育ったモニちゃんのパパ(エンツォ)は、その昔スタジアムで観戦した際、ゲームが荒れに荒れてサポーターが暴徒と化した現場に居合わせたことがあるらしく、よくその様子を武勇伝のように語ってくれる。
エンツォの武勇伝で僕が好きな話がある。サポーターを沈静化するために警察が武器を持って出動して、催涙弾を発砲したらしいのだが、その催涙弾は炸裂する前の球体の状態のままエンツォの頭に直撃し、彼の頭をかち割ったのだそうだ。話の最後にエンツォは誇らしげに「すごい血が出た!」と笑みを浮かべるのがお決まりのパターンだ。
このエピソードは大昔の話だが、SSCナポリにはそのくらい情熱的なサポーターがいるのだ。僕はサッカーが好きなのでSSCナポリの試合を見に行きたかったのだが、エンツォもモニちゃんも「危ないから地元の人のアテンドが無いとちょっと難しいかな…」と口を揃える。僕のようなヨソ者にはハードルが高いようだ。
フオリグロッタに滞在して初めてスタディオ・マラドーナでSSCナポリが試合をする日に、ナポリファンである親戚の少年に案内してもらって試合前のスタジアムの周りを歩いたことがある。
スタジアムの周りにはたくさんのバルがあり、そこでユニフォームを着たファンがカフェを飲んだり、軽くビールをあおったりしていた。僕が異様に感じたのは、スタジアム周辺でくだを巻いている大量のファンが「ものすごく地元の人っぽい」ことだ。
セリエAの公式戦なので数万人のナポリサポーターがフオリグロッタに集結しているはずだが、Jリーグのサポーターのような「初見さん歓迎です」といったカジュアルな雰囲気がナポリサポからは全く感じられなかった。どす黒い玄人っぽさを携えた数万人がスタジアムを包囲しているのだ。
その日の試合はスタジアムのすぐ近くにあるモニちゃんの叔母(マリア)の家で家族10人くらいで集まってテレビで観戦することに。スタジアムは家のバルコニーからよく見えるだけでなく、歓声もしっかり聞こえる。
スタジアムの生の歓声が聞こえることで体験できるのが「歓声による歓喜のネタバレ」である。SSCナポリがゴールを奪うとフオリグロッタの町中にスタジアムの歓声が響き渡る。テレビで観戦している僕たちにとって、その歓声は「ゴール確定演出」なのだ。歓喜の歓声があがったすぐ後にテレビ中継でもゴールが決まるのである。
手に汗を握ってテレビ観戦をしている家族たちは、この歓喜のネタバレを聞くことでグッと握った手をゆるめ、ゆったりとソファにもたれかかり、テレビの中で歓喜の瞬間が訪れるのを待つのだ。
このようにして、娯楽不毛の地であるフオリグロッタにも週に1度は格別な娯楽が訪れる。しかも今シーズンのSSCナポリはまさに無双状態と言っていいレベルで強いのでみんなウキウキだろう。逆に、イタリア代表がカタールW杯の出場を逃した時は、みんなどれだけ荒れたのだろうと想像するだけでも恐ろしい。
といった具合にフオリグロッタの住民にとってサッカーは数少ない娯楽である。さてずいぶんと脱線してしまったが、彼らはサッカーがない時は何をして過ごしているのか。
それを教えてくれたのは、モニちゃんの遠い親戚であるジョルダーナだ。ジョルダーナとの出会いは唐突だった。ある日突然モニちゃんが「出かけるぞ」と言い出して、どこに行くのかと聞くと「インスタで繋がってる人に会いに行く、多分親戚だと思うんだけど」とのこと。
約束場所のスタディオ・マラドーナの前で待っていると、ビッグスクーターに乗って彼女は現れた。
「ジョルダーナ。マイケル・ジョーダンのジョルダーナだよ」
と、自己紹介してくれた。なんて覚えやすい自己紹介だろうと感心した。バルでスプリッツを飲みながらジョルダーナと雑談をしていると、どうやらモニちゃんとは「イトコのイトコ」という関係らしい。本当に親戚だった。
アスリートのような恵まれた体格のジョルダーナは、全てを悟ったような涼しげな目が印象的で、淡々とこの町のことを教えてくれた。
「この町の人たちにとって娯楽はバルに行くこと、人と話すこと、そして歩くこと。この3つだね。」
この解答は僕にとってなかなか衝撃的だった。僕は多趣味で、自分のことを暇つぶしの達人だと思っていたのだが、フオリグロッタの人々は「趣味」などという武器を持たなくても日常生活そのものが娯楽なのだそうだ。
もちろん人によるのだろうが、少なくとも僕のように「ボルダリングしてゲーセン行ってサウナに入る」といったことはできないはずだ。この町にはさびれた映画館とバルしかないのだから。
ジョルダーナは「次はフオリグロッタの寿司屋でご飯を食べよう」と約束をしてビッグスクーターでスタジアムの方へ走り去っていった。