使い捨ての言葉たち
先日 Twitter を始めたと書きましたが、見ていると本当に色々なツイートで溢れています。
世の中色んな人がいるんだな、と思う反面、このツイート達はいつか誰からも忘れ去られてインターネットの底に沈んでいくんだろうな、と思うと寂しい気持ちになります。
「今」を伝える、あるいは時事性と言うことと、トランプ大統領のように本人が一次ソースであることは、非常に意味があると思います。
ですが、「今日何食べた?」とか「友達とディズニーランドに来ています!」とか、本人たち以外に取ってはどうでもいいです。
別にいいんですよ、仲間内で楽しむだけなら。
だけど、僕の目に入れないで欲しい。
最近 note に投稿しているから言うわけではないですが、言葉は本来、思いで、重いです。
言葉があるからこそ、2000年以上前のキリストの思想が残っているのです。
日本書紀や源氏物語も言葉がなければ成立しません。
そんな大切なモノを、日々軽々しく使い捨てる感覚が受け入れられないのです。
自分は情報収集と note の記事拡散のために Twitter を使っているだけで、それ以上の意味はありません。
確かにフォローされたり投稿にコメントされたりすると嬉しいですが、自分も含めて、現実の友達以外は所詮フォロワーを増やしたいと言う下心で繋がっているだけです。
自分が note に書いている記事は、まず Word で一気に書いて、その後に構成や「てにをは」、文章のバランスなどを見直し、それなりに時間をかけ、丁寧に仕上げています。
たとえそれが収入になろうとなるまいと、文章を書く立場として、言葉を世に送り出す者として、最低限の責任だと考えています。
こんなことを書いても理解されないし、理解されようとも思っていないので、曼殊沙華編は Twitter には投稿していません。noteだからこそ書けると思っています。
もっと言葉を大切にしましょうよ。
最近特に思います。