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インターナショナルスクールの長い夏休み
インターナショナルスクール系の夏休みは長く、宿題がない。アメリカの夏休み同様に、教育に熱心な家庭の子たちはこの間にサマースクールやサマーキャンプに行く。長い長い夏休みだ。
1980年半ばから、ジャカルタのインターナショナルスクールに通った5年間、夏休みの過ごし方を工夫した。親にプレゼンをしたり、嘆願書を書いていくつかのサマースクールに行かせてもらった。
9年生になる初めての夏休みは、ロサンゼルス郊外のサマースクールに通った。まだ英語が十分にできないから夏の間に忘れてしまう、と親に頼んで申し込んだ。学校にパンフレットが置いてあって、前年に英語が上手い先輩が行ったところだった。昔ロサンゼルスに住んでた親友カヨコと一緒に行く、と持ちかけて、カヨコのご両親とシンガポールまで一緒に行き二人でロサンゼルスに旅立った。
その地では名門とされる私立の寄宿学校だが、アメリカ各地からは補講で仕方なく参加している高学年のドラ子息達が多かった。途上国からの中学生はワクワクしながらカリフォルニアでのサマースクールに挑んだ。日本からもインターナショナルスクールに通う子や毎夏英語を勉強しているという子も参加していた。
このオハイ・バレースクールで英語とスペイン語の授業を取って、乗馬を覚えた。授業の印象はあまりない。英語の先生は牧師さんで、そんなに教え方が上手だとは思わなかったし、英語がまだあまり得意でない私たちはあまり相手にされていなかった。スペイン語はインターと違って母語としないが親切な若い先生だった。
メキシコから来たパウリーナとカルメン姉妹と仲良くなり、英語がやや苦手なアンヘリカとはカルメン達を介して話した。おっとりとして品がよく、よく笑う、親切な姉妹だった。
週末になるとキャンプファイヤーを囲んだ。マシュマロを串に刺して火で炙り、グラハムクラッカーとハーシーズチョコの間に挟んで食べるS‘moresという世にも美味しいお菓子と出会った。その他にもM&Mやドリトス、チーズがトロリとかかったナチョスなど初めて食べるジャンクフードは中学生の舌を魅了した。
数日間の野外授業で、大半のアメリカ人上級生たちがビーチキャンプに行った。メキシコ組とジャカルタ組は、せっかくなので乗馬キャンプを選んだ。通常の乗馬クラスでは、馬に鞍を乗せ皮のベルトをお腹を締めて、馬の膝を持って蹄(ひづめ)から泥をかき出し、馬の口に指を突っ込んで奥歯を押して口を開けさせて馬銜(はみ)を噛ませた。馬を驚かせて、蹴られないように気をつけながら馬に接し、落馬した時には転がって踏まれないようにすることを学んだ。
野外活動では、馬の糞の始末や、餌や水やりも日課となった。普段は素行の悪い子の罰則として課されている作業だ。
カウガールみたいなコーチ達がカウボーイハットで長いロープをつけて、裸馬に乗る練習もした。ウェスタンの鞍をつけて大きな革製の鎧(あぶみ)に乗馬ブーツを通して、オレンジ畑の間を外乗した。爽やかなカリフォルニアの夜をテントの中で過ごした。
10年生の夏休みは予定を立てなかった。九州に転勤で引越した大好きな叔母の家に1ヶ月以上滞在した。夜遅くまでウィンブルドンを見て、日中は貸しビデオ屋で借りた洋画を見てだらだらと過ごした。憧れのアルバイトをすると言ったものの、探し方もツテもなくやることを見つけられなかった。博多まで一人でa~haのコンサートに行き、昼夜逆転した生活をした。
叔母は私が帰宅後に「姪がご迷惑をおかけしました」と叔父に三つ指をついたそうだ。叔父は「いいよ、いいよ、俺の姪でもあるんだから」と言ってくれたらしい。その話を叔母から聞かされても、何が悪かったのかもわからなかった。私はその夏ただただ、おばちゃまと一緒にいられて幸せだった。反対に、無目的に高校一年生が40歳の夫婦の元でごろごろしていたのは、さぞかしうざかっただろう。
前年の反省からも、11年生になる夏休みには何かを見つけなければ、と学期中から年長の友達に取材をした。アテネで、国際バカロレアのTheory of Knowledgeの四週間の集中コースがあると知った。ギリシャで哲学!自由時間はビーチに!ギリシャの街並みを見学するなんて!と盛り上がり、親にそのコース参加の学術的利点と有益性をプレゼンした。
一人でヨーロッパ行きの飛行機に乗るのが不安というイギリス人のエリザベスと一緒にフランクフルト経由でアテネに入った。エリザベスは機中で「お水をいただけますか」を繰り返し食事も喉を取らないくらい心配そうだった。方向音痴の私だが、飛行機に乗るのは航空便とゲートを辿れば良いだけなので、都市型の公共交通機関に乗るよりもよっぽど自信があった。
アテネの女子寄宿学校を間借りしたサマースクールには、主にジャカルタ、マニラのインターナショナルスクールと南カリフォルニアのサニーヒルズ校の生徒で構成されていた。私が通う学校の生徒からも10人以上行っていて、マニラと合わせると多数派となった。「マニラから来た」、と自己紹介したフィリピン人のジョージに、アメリカから来た日系アメリカ人のジェームズが聴いていたウォークマンを指差し「これ知っている?」と言ったと話が広まりインターナショナルスクールの子達は爆笑していた。
アメリカを初めて出るサニーヒルズの生徒達に比べて、異文化で生活しているインターナショナルスクールの欧州、カナダとアジア勢は早熟だった。徐々にオレンジ郡の公立進学校サニーヒルズの生徒達との溝は埋まったが、インターナショナルスクールの男子が冷たいとチアリーダーの女子達が当初私たち女子に泣きついた。
日本人でバイリンガルのユミが、サニーヒルズではチアリーダーは皆、見目麗しい、運動神経のある成績優秀者だと教えてくれた。インターではチアリーダーの立場は弱く、チアーも中学生の応援団みたいで応募者は皆無だった。
食堂では毎日ムサカやスブラキなどのギリシャ料理に舌鼓を打った。週末にはマニラから来たアイリーンと街中のレストランに繰り出した。飲酒に年齢制限のない途上国から来た私たちは、夕暮れを見ながら白ワインのレッツィーナを飲み、笑い転げた。
野外半径劇場でギリシャ悲劇を観劇に行った。言葉は分からないが、暗くなる中照明が当たる野外の半径劇場でオディプス・レックスを仲間と観る贅沢を噛み締めた。
近くの島まで遠出が企画され、思い思いに島観光を楽しんだ。道すがら、「乗って行きなよ」と声をかけてくれたジョージが運転する貸しモペッドで風をなびかせ島内巡りをした。たまたま土産物屋で購入した黒いTシャツがお揃いで、同じくマニラからのアネリースに「ペアルックになってたよ!」と冷やかされた。高校生二人がローマの休日よろしく海岸沿いをベアルックで走る姿を想像すると笑ってしまう。
海に目をやるとジャカルタからのオランダ人のリチャードやイブはパラセイリングをしていた。エーゲ海は深い藍色をしていた。
サマースクールが終わる頃になると、クーラーもないアテネの寄宿舎は暑く、ベランダにタオルを敷いて寝た。ドライヤーが吹きつけてくるような自分が体験した一番の暑い夏だった。広いベランダは洗濯物をバケツで手で洗って干す場所だった。普段はジャカルタで家事はメイドさんに任せる生活だったが、誰に言われるでもなく必然から洗濯おけを使い始めた。アネリースが水疱瘡にかかり、免疫がある私は彼女の部屋でお見舞いがてらおしゃべりをしていた。
四週間はあっという間に過ぎて、ジャカルタの同級生のローザベルやミジャヌーと安宿に泊まって、夜の街に繰り出した。途中ドラッグクィーンに遭遇したりして、高校生の私たちは早々と尻尾を巻いてぼろ宿に戻った。帰り際にライトアップされるアクロポリスが光って見えた。
バケツでの洗濯やクーラーのない生活や、それまで泊まったことのない安宿といい、不便なことだらけなのが楽しくて仕方なかった。その後ローザベルが水疱瘡にかかったことを、彼女の母親で私が大好きなESLの主任教員から聞いた。「感染者が出てたのになんて無責任なコースなんでしょう」と憤慨していた。コース参加に免責事項に署名するでもなく、全てがおおらかな1980年代後半のことだった。
国際バカロレアを取ってインターナショナルスクールを卒業した後は、日本で帰国子女向け予備校に通うことになっていた。日本の大学生活にあまり期待もなく、予備校を始める前にハーバードのサマースクールに行かせてくれ、とすでにひと足さきに帰国していた父に書簡をしたためた。
ハーバードサマースクールは前年に行った、という英語教師のMr.サロモンが教えてくれたのだった。Mr.サロモンは、好意で休み時間に英語の文法解説をしてくれていた。Mrs.サロモンは私のExtended Essayのアドバイザーで、私の英語の弱みを見つけると、「Mr.サロモンに教わってらっしゃい」、とa とthe の冠詞の使い方の復習などを教えてもらっていた。
嘆願書を兼ねた父への手紙には、今まで受けさせてもらった教育や一人でジャカルタに残してもらって国際バカロレアを終了させてもらっていることに感謝しつつ、将来を見据えてアメリカの大学のサマースクールに行かせて欲しい、と綴った。渾身の作だった、と母は言うが、1,500ドルと1,800ドルを合わせて2,300ドルかかります、と計算を間違えたオチがついた。そのことに誰も気が付かず、学校の受け入れが決まってから1,000ドルの不足分を工面することになった詐欺まがいの嘆願書だった。
長い夏休みをどうするかを自分で考えて、自分で見つけてきて、自分で親に頼んで、親が首を縦に振るような作戦を考えて、体験した夏はかけがえの無い財産だ。ロサンゼルスでの8週間や、ギリシャでの充実した4週間は長かった。それは、刺激と新たな体験に満ちた長い体感時間だったことを知った。
あの濃密な長い夏休みのような時間をまた過ごしたい。そのための新たなチャレンジを探している。
大人は子どもより代謝が落ちるため、心の時間の進みが緩やかで、客観的な時間の経過が速く感じやすくなる。代謝は年代だけではなく、時間帯によっても変化し「朝は時間が速く過ぎる」「昼食後から夕方までが長く感じる」といった感覚の差につながっているという。
外部からの刺激については、感じる音や光の量が多かったり、空間が広いところにいるほうが体感時間を長く感じる傾向がある。人間は自分の大きさを基準に周囲の状況を判断するため、同じ空間でも子どもは大人に比べて多くの刺激を受け取っており、体感時間がのびる。ほかにも「時間の経過に意識が向いている」「体験するイベントの量が増える」といった状況も、体感時間を長く感じさせる効果がある。