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インターナショナルスクールと国際バカロレアIB ディプロマ  

The painting satirizes copycat behavior of teenager students in Thai society nowadays as a result of being overwhelmed by information consumption through the entertainment media. The excessive consumption then becomes excessive behavior and expression.

Amarin Buppasiri ”Mirror No.5”

昔々、インターナショナルスクールの9年生だった時に、ある同級生に喝を入れられて、IBディプロマをやることにした。
これは、目下IB科目をどう配分しようかと迷っている16歳になるあきちゃんに捧げるお話だ。

ジャカルタのインターナショナルスクールに私と同じく8年生で転入して、一緒にESLのクラスに入ったソノコがいた。勉強が得意な、積極的な日本人女子だった。小さな頃にイラクに住んでいた名残で、英語がそこそこ出来た。

その頃私はカヨコとつるんでいた。カヨコはロサンゼルスで小学生を過ごしたので英語を流暢に操っていた。英語の上手いカヨコと勉強ができるソノコに挟まれて、私はのほほんと過ごしていた。ドイツ語ができるということ以外は取り立て目立たない子だった。

多言語話者でESLの先生が、ドイツ語のクラスを取ることを勧めてくれた。ソノコも初心者クラスのドイツ語Iを取っていた。ドイツ語IIから始めた私は、海外育ちのドイツ人の友達が出来た。それから4年間取り続けることになるドイツ語クラスで、毎年優秀賞を授与された。「ドイツに住んでたんだから当たり前だよね。」と言う口の悪い日本人同級生に、「クラスにはドイツ人やドイツ育ちもいるよ」と返した。私は「ドイツ語ができる日本人」だった。

ソノコと同じタイミングでESLを出ることになった。8年生の前期にレギュラークラスに移ることを打診されたが、その前に三週間ほど病欠したこともあり、まだ温室のようなESLにいたい、と申し出た。そもそもソノコだってまだレギュラークラスじゃなかった。9年生の始めからレギュラークラスに移った。

ソノコとは行動を共にしていなかった。私の親友はカヨコだったし、ソノコは「ガリ勉」で自分とは違うと思っていた。

ソノコは、ただのガリ勉ではなく、勉強の仕方が分かっている知識欲の旺盛な生徒だった。課外活動の運動にも積極的に参加して、先生にも覚えめでたい。日本人以外の友達も自然に作って、学校生活を謳歌していた。

ある日、水色のスクールバスの中で私の前に座ったソノコに怒鳴られた。来年の科目をどうするか、という軽い話をしてた。突然、ソノコが声を荒げた。「くにこはデキるのに、そうやっていつもカヨコとチャラチャラして!どうしてIBディプロマをやらないの!」

頭の回転が速いソノコをそれまで敬遠していたのかもしれない。思ったことをはっきりというソノコを怖いと思っていたのかもしれない。なんでも知っているソノコの知識に圧倒されていたのかもしれない。

なんかよく分からないけど、怒られたからやや本腰を入れることにした。ソノコがやれると言うのなら、とIBディプロマを目指すことにした。それまで知る限り日本人生徒でディプロマを取得した人はいなかった。取らないことが当たり前だったし、私はソノコと違って、自分に甘い高校生だった。

10年生から、ソノコ同様にIBを視野に入れた科目選定をするようになった。英語は日本人が皆とるEnglish B H、数学と歴史をH科目にして、日本語のA S、ドイツ語のB S、物理のS。選択肢が限られていたから他にやりようがなかったと思っていたが、振り返れば工夫の余地があった。

そんな頃、ソノコのお父様が癌に罹患して、家族での突然の帰国となった。ソノコは忸怩たる思いで日本の高校に行くことになった。それもあって私を怒ったのかもしれない。カヨコは9年生に上がってすぐに帰国していた。英語が目立ってうまい日本人同級生がいなくなって私は一人残された。

英語の目標水準を英語B Hに据えていたので、10年生ではBasic Compositionを取っていた。クラスの同級生は学業以外のことを得意とするネイティブやほぼネイティブだった。
教室のドアを開けながら振り返りざまに外にいる生徒に「Fxxk you! You xx&* 」と叫んだオーストラリア人生徒は、その足で校長室に向かわされた。サッカー部で活躍するオランダ人男子生徒や、演劇の舞台で目立つ華やかなアメリカ人女子生徒がいた。イタリア人のアンドレアもいた。

10年生の終わりに英語の先生に次年度のクラスの相談をすると、「英語BでなくAを取れば良いのじゃないの?」と不思議そうに言う。「英語はHを取るので、B Hなんです」、と主張しても「ならばA Hを取れば良いのじゃない?」と屈託がない。それこそ英語A Hを取った日本人は前代未聞だ。昔英語圏に暮らしていた優秀な先輩2名はA Sを取っただけで皆の羨望の的だった。

H科目の数合わせのために、ドイツ語をB Hにして英語をA Sにできないか画策したが、最終的にA Hをとる事にした。10年生で「Literary Analysis」を取っていないハンディはあるものの、英語の先生も大丈夫と言っているからなんとかなるかも、と戦々恐々と挑んだ。

11年生で迎えたA Hのクラスには、同学年の優秀で通る生徒たちが居並んだ。なぜか英語A Hは賢い生徒の集まりという見方がされていた。英語A Hはひときわ厳しいクラスだったせいか、文学論を述べ合うクラスだったせいか、仲間意識が強かった。戦友であるかのような連帯感があった。

心構えが変わったおかげで英語力は格段に伸びた。

当時のジャカルタインターナショナルスクールは、アメリカの外交官が子弟をその学校に通わせるために、ジャカルタ赴任を希望するほどの学校、と後に知った。

卒業してすぐにハーバード大学の高校生プログラムに参加したときに、私のSATのスコアを聞いたアメリカ人生徒が口にした物を吹き出した。ジャカルタの同級生シヴァーンが「その点数が取れれば私は希望校に行けるわ」と言っていたスコアだった。
ハーバードサマースクールでは、アメリカの有名進学校の11年生になる子たちが初対面に「What's your SAT?」と交わしていた。私のスコアを「なんでそんなに低いの??」と驚かれた。
優秀とされたジャカルタのインターナショナルスクールは、あまり成績や進学先を気にする学校ではなかった。英語A Hの優秀なアメリカ人の友人たちも、名門とはいえ州立大学に進学した。私のスコアがあれば、と言っていたシヴァーンと英語A Hの優等生ナターシャが同じテキサス大学オースティン校に行った。

SATのスコア同様に、気にもとめていなかった高校時代の成績表を見た時には私も物を吹き出しそうになった。当時の私に、勉強の仕方を一緒に見てくれるチューターがいたらよかった。苦労して書いた歴史のGuided Courseworkは、苦手なトピックの日露戦争を選び、学校の図書館から探しあてた絵本が一番役にたった文献、と口頭試問で答える始末だった。

Extended Essayは、9年生の時に良い成績が取れた人類学の先生にアドバイザーを依頼し、楽しく言語人類学を題材に「バイリンガリズム」について調べて、書いた。「文法に揺らぎがあるから、見てもらうと良いわ」、と言われてESLの先生にお金を払って家庭教師になってもらって文法や構成を指導してもらった。

人類学ではAを取る生徒だったのに、同じ先生が教える「Modern History」のクラスでは成績は振るわなかった。歴史のHを取っていたのに、歴史の論文は苦手だった。ただし、歴史の知識を文学のクラスに持ち込むと珍しくAが取れた。一つのことを探究するよりも、違った知識を結びつけるのが当時から得意とする思考だったのだろう。

数学Hは途中からついていけなくなっていた。後から見直そう、と思って、アンドレアの宿題を写して提出していた。英語のクラスではパッとしなかったイタリア人のアンドレアだが数学ではずば抜けていた。彼は後にEU政府の原子力政策を担う事になる。そして医師の妻と息子二人を残して、不治の病でこの世を去った。

英語や歴史の読書量と課題数に追われて常に寝不足気味だった。数学に加えて、物理もおぼつかなかった。散々な成績でギリギリIBディプロマを取得した。

成績は振るわないのに優秀な生徒として通っていた。模擬国連の代表団として華々しく出発し、ディベートチームに選抜されて「最も伸びたディベーター」のトロフィーをもらった。卒業式では壇上で祝祷を述べた。ECIS賞という国際理解賞も授与された。
学業が優秀な生徒達で構成されるNational Honor Society に属する生徒は、卒業式では首から黄色い房のついた紐を下げている。アルファベット順で前に並んだサッカー部やソフトボール部で活躍したアメリカ人女子までが私に「黄色い紐をどこにやったのさ」と尋ねる。「成績良くないし」と肩をすくめた。

楽しかった学校生活だった。IBディプロマを取ることを選択しなければ、運動の才能も音楽の才能も開花しなかった私は、自分の立ち位置を見つけることもなく学校生活を終えただろう。無理して模擬国連やディベートに挑戦しなかっただろう。

欲を言えば、Extended Essay執筆の時のように、細やかに指導するチューターを見つけられればIBクラスをもっと実のあるものにできたかもしれない。
回教寺院からアザーンが鳴り響く頃、ベッドの上で「宿題やらなきゃー」とゴロゴロと過ごしている時間に、数学や物理の復習指導をしてもらって、一緒に歴史のGuided Courseworkの課題選びを考えてもらっていれば、学業がもっと楽しかったかもしれない。

ドイツに里帰りして、知り合いのおばちゃまにも喝を入れられた。「あなたは現地の子たちと違うんだから、遊んでばかりいないで大学図書館に行ってExtended Essayのリサーチをしていらっしゃい!」。
たまに勉強のことで具体的に厳しく言ってもらえれば、勉強が楽しい、ともっと早くから分かったかもしれない。課題をどうやって選んで進めるか、を早くに覚えたかもしれない。

もっと勉強をしておけばよかったとは言わない。ソノコのように、もっと早く勉強の仕方と時間管理を身につけて、学生生活という限られた時間に存分に学業に没頭したかった。

IBディプロマそのものが役に立ったかというと、取っても受験には関係なかった。無理して取って、落ちこぼれた数学や物理の知識がなくて困ったこともない。ただし、IBディプロマという枠がなければ、小論文を書く力は付かず、社会貢献事業のCASSも、なぜ学ぶかというThoery of Knowledgeも取ることはなかった。頑張って英語のAHを取らなかった。満点を取ったExtended Essayで、論文を書く楽しみと達成感を覚えることはなかった。言語学に興味があると言った私をバティックのクラスから引っ張り出してフランス語を追加させたIBコーディネーターの先生以外にも、もっと相談する相手がいればよかった。アート科目を取れなかった事は未だに心残りだ。

40年の月日が過ぎてもなお、バスの前の座席から振り向いて喝を入れたソノコに感謝している。ソノコが卒業までいたら、私は優秀な日本人のポジションを取れたのか。ソノコがいたら安心して、サボっていられたのか、それとも良き相談相手となったのか。

アラビストとなり、開発経済政策の専門家となったソノコに20年ぶりに連絡してみた。四月に帰京する時に会うことになっている。

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